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第297話
ずっと眠り続けるかと思われたアシェルは、しかしルイの予想に反してボンヤリとしているものの少しの間は目を覚ましていた。そのことに歓喜する心は、しかし繰り返される〝誰?〟との問いかけに痛みを覚える。命が奪われることこそ今の所ないが、やはり薬は効かないのかと瞼を伏せるルイに、ジルアは即効性ではないのだと説明した。
「ヒュトゥスレイは様々な症状がありますが、研究を重ねるうちに多くのことがわかりました。最初は気づかないほど僅かな物忘れと、頭痛をはじめとする身体の痛みを覚えますが、人の身体はそれをどうにか耐えようとします。そのため心労が重なり記憶はますます失われ、心労と痛みを和らげようと甘いものを異常なほどに摂取したがります。ヒュトゥスレイの患者の中には一時痛みを感じなくなる方もおられますが、それは痛みが無くなったのではなく、痛いという感情を忘れているのです」
その証拠に、頭痛などが無かったとしても喉に押し込むような甘いものの摂取は決して止めることはできない。幼き時には好きでなかった甘いものをアシェルが異常に好むのも、このせいだった。
「正確には違いますが、ヒュトゥスレイは脳に巣食う菌だと思えば想像がしやすいでしょう。雨が降ることによりヒュトゥスレイが増殖し、脳を蝕んでいきます。そのため痛みを覚え、記憶障害が起こり、そして幻覚を見る。ヒュトゥスレイの患者が怒りっぽくなり、穏やかな性格が無くなったように感じるのもこのせいです。ですが、雨の日に増殖するのであれば、それらを薬で消滅させれば良いのです……論理的には、でございますが」
言うだけならば簡単だが、脳を傷つけずにどれほどあるかもわからないヒュトゥスレイを消し去るというのは不可能に近い。そのため、即効性を求めることはできなかった。
「ヒュトゥスレイを患った者は徐々に記憶が消えると、そう言われています。実際、覚えているはずのものを忘れてしまう病です。しかし我々は〝消える〟という言葉を使うには不適切だと思っております。ヒュトゥスレイによって忘れられた記憶は消えたのではなく、その人の奥深くに眠っているだけなのですから」
アシェルに投与しているのはヒュトゥスレイを少しずつ消していく薬だ。徐々にヒュトゥスレイが消えていけば、奥深くに眠る記憶が再び目覚めるはずで、同時に痛みや幻覚も消えていくだろう。あとは薬が正常に作用し、アシェルの身を逆に蝕まないことを祈るより他ない。
「希望はあると、願っても良いのですね?」
掠れた声にジルアの胸が痛む。人生の大半を医療に捧げてきたが、どれほど時が流れようと、多くの人と関わろうと、大切な人のために祈り願うその姿は慣れるものではない。今まで同じようにジルアに問いかけた人々は皆、ルイも含めて医者が断言できることなどないとわかっているのだ。わかっていて、脳裏には最悪の結末もあって、それでも願い口に出さずにはいられない。
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