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第298話
「……正直に申し上げれば、私はこの薬の開発ですら間に合わないと、そう思っておりました。バーチェラ王妃殿下より随時ご報告いただいていた症状を見るかぎり、あまりに進行が速い。ヒュトゥスレイはジワジワと、何年、何十年とかけて痛みと苦しみを与え続ける残酷な病です。多くの人が早くに命を落とすのは、ヒュトゥスレイに身体が耐えられなくなったからではなく、幻覚を見て場所を認識できぬまま事故にあうからで、それを注意していれば痛みや苦しみがあったとしてもそうそう命は落としません。しかし、アシェル様の場合はそういった事故に気をつけていようと、もう僅かしか耐えられないだろうと文だけでわかるほどでした。ですが、投与するには躊躇うものであったとしてもヒュトゥスレイに効果のある薬の開発まで持ちこたえ、遠路オルシアまでたどり着くことができた」
それはきっと、アシェルがギリギリのところでルイの元へ来たからだろう。突然の結婚話はアシェルに心労を与えたかもしれないが、ノーウォルトに居続けるよりは随分とマシで、アシェルが引っ越そうとしていた田舎の屋敷よりも十分な手を借りることができる。痛みや苦しみを独りで耐える必要もなく、ルイの側ではヒュトゥスレイを患っていることを隠す必要もなかった。それがどれだけアシェルの心を穏やかにしたことだろう。何より、アシェルは徐々にではあるもののルイに甘えを見せるようになっていた。
もしもルイの凱旋が間に合わなければ、もしもリゼルが約束を守らなければ、もしもフィアナが動いてくれなければ、アシェルは薬さえ得ることのできないまま死をむかえていただろう。
「確かに、アシェル様はヒュトゥスレイを患われました。異常な進行をみせるほどの、想像を絶するお苦しみもあったでしょう。ここまで持ちこたえられたのは奇跡と言っても良いかもしれません。ですが、その奇跡は起こり、アシェル様は今この場におられます。それは覆すことのできぬ事実でございますれば、我々はまだ決して、諦めておりません」
断言することのない医師の、力強いその言葉にルイは泣きそうになる。震える唇を噛み、頷くようにゆっくりと瞬いた。
「さて、そろそろお時間です。昼の投薬を始めましょう」
そう言って注射器を取り出したジルアは、慎重にアシェルの腕に針を差し込んだ。ゆっくり、ゆっくりと薬がアシェルの体内に入っていく。
深く寝台に横たわり眠っているアシェルを見つめ、ルイはその真白な髪を撫で梳いた。
いつか、ロランヴィエルの庭で小さな子猫を抱いた姿を思い出す。
あの時、アシェルが何を思ったかなどルイにはわからない。諦念を深く抱いていた彼は、それでも子猫に胸の奥深くにあった小さな願いを託したのではないか。そんな風に思えてならない。
「アシェル」
頬を撫で、願うように口づけた。
「希望を――」
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