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第299話
フィアナがオルシアに着いたのは正午過ぎのことだった。ボンヤリと起きていたアシェルの世話をあれこれと焼いていたルイは、その報告を聞いて顔を上げる。
「失礼いたします。旦那様、エリクがただいま到着いたしました」
ベリエルが埃を落として身綺麗にした弟を連れてくる。ルイの前に膝をついて頭を垂れた燕尾服の男を、寝台に横たわったままのアシェルはボンヤリと見つめていた。
「旦那様、王妃殿下より言伝を預かっております。身支度を整え次第、アルフレッド王とシェリダン妃殿下にお会いになります。その際、旦那様も同席するようにと」
確かに、アルフレッドとシェリダンの計らいでしばらくアシェルの側にいることを優先させてもらったが、アシェルの容態は今のところ安定している。ジルアも傍にいる今、少し離れてアルフレッドたちと話をする分には問題ないだろう。
「わかった。エリクは長旅で疲れただろうから休め。ベリエルはアシェルの側に」
何かあればすぐに知らせろ、とアシェルに聞こえぬようルイは命じる。ベリエルは頷いたが、エリクは首を横に振った。
「旦那様、私は馬車で参りましたからさほど疲労はございません。私もアシェル様のお側におります」
アシェルがロランヴィエルの屋敷に来てからずっと、エリクが彼の側について世話をしていたのだ。必要あって別行動していたとはいえ、離れていた間ずっと心配していたのだろう。
「わかった。だが、無理はしないように」
頷き、ルイはアシェルの寝台に近づく。寝台に広がる真白な髪を撫で梳いた。
「少し出てきます。すぐに戻ってきますから、ゆっくり休んでいてくださいね。何かあれば、遠慮することなくベリエルたちに伝えてください」
額に優しく口づけを落として立ち上がり、踵を返すその背中をアシェルは静かに見つめる。
ルイ・フォン・ロランヴィエルと名乗った彼はアシェルによくこうして口づけをする。婚約者だと言っていたからそれが普通なのかもしれないけれど、彼を知らないアシェルとしては戸惑うばかりだ。
「アシェル様、お側を離れたことをお許しください」
エリクがアシェルの寝台に近づき、再び膝をつく。その姿を見つめ、アシェルは何を言うべきかわからなかった。
〝あなたは誰ですか〟
問いかけるべきはそれであるはずなのに、言葉が出せない。ルイにも、ベリエルにも、そう問いかけた。彼らは微笑んで名乗ってくれたけれど、目にかけられたモノクルは彼らの瞳が僅かに揺れたのを確かにアシェルへ見せた。
己が問いかける度、彼らは傷つく。だが取り繕えるほどの何もアシェルは知らないから、ただ口を閉ざすことしかできない。だが何も言葉にしないアシェルに彼はやはり瞳を揺らしながらも微笑んだ。
「名をエリクと申します。アシェル様、あなた様とルイ様にお仕えする執事です」
そして、ベリエルの弟。
「アシェル様、こちらをお持ちいたしました。毎朝必ず服につけてほしいと言われたアシェル様のご命令を一時守れなかったこと、お許しください」
無言のまま視線を向けるアシェルに、エリクは懐から取り出したものを握らせた。小さな鎖のついた、銀の懐中時計。
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