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Chaos magician 混沌魔術師1*

 「ねえロビン、このジュースすっごく不味い」とスオウ・ナオがしかめ面して言った時、おかしいと気づくべきだった。  ぼくも彼も、あまりカンが良い方ではないとしてもだ。まさかその時点で仕掛けられていたとは、想像もしていなかった。  魔法使いがいることは、一般的に秘匿されている。ぼくらの大学は非魔法使いの学部の中に魔法学科が併設されていて、だから魔法使いは表だって(特に非魔法使いがいるエリアでは)、使用厳禁だ。  だからと言ってだ。  ナオはいつものハーブティーを注文していたのに、店員から差し出されたのはかなり深い緑の、野菜ジュースの様な飲み物だった。間違いを訂正もせず受け取ったナオは、 「ヴィーガン用かな。味にこだわって作ってないのかもね」  なんて笑いながらいつも通りのんびりと昼食を平らげ、大学の食堂を後にした。普段とはっきり違ったのはその後だ。  講義棟へ移動している最中、見知らぬ奴らに囲まれた。ナオの方へ無遠慮に伸ばされる複数の腕。少し遠くに、見慣れない高級車が停まっていた。  そこまで認識したぼくは、ナオが人払いの(まじな)いを唱える間に方向感覚を失う呪いを発動させ、奴らの視界を奪ってナオの腕を取り、講義棟へ行く振りをしてそのまま敷地を突っ切って、大きく迂回しぼくの家へ駆け込んだ。  上手く逃れた、と思っていた。  なのにだ。ぼくの自室に入った途端、ナオは気持ち悪いと言いながら、気を失い倒れた。  全然、逃れられていなかった。  仕掛けてきた奴らには、のん気に昼食を摂っていたぼくらが相当間抜けに見えたに違いない。 「ヴガリテ・ト・カコ……っ、これも反応無し」  ぼくは部屋に仕掛けた魔法陣とナオの反応に変化がないことを見て取り、右手を掲げたまま、左手で握った万年筆で、机の上に置いたリストに書き込みをする 「っ!」  手が滑って、万年筆を落としてしまう。指先が震え、なかなかつかめない。  焦るな、焦るな。いまは後悔も苛立ちも、役には立たない。  はっ、と頭を上げ、ベッドを見遣る。拙い、彼から目を離してしまった、何が起こるか分からないのに!  身体中からどっ、と冷や汗が流れる。  ベッドの上には、頭から手足の先まで、全ての血の気が引き、真っ青になったナオが横たわる。変化を確認するために、衣類は全部脱がせていた。荒い呼吸音。薄い胸元が何度も上下しているのが見えた。  落ち着けロビン、また数インチ、髪が長くなっただけ(・・)じゃないか。もうそんなことだけで驚いている場合じゃないし、幸い彼はまだ、生きている。  自分の心臓の音がやたらと大きく響く。  元々肩の下くらいまであった暗い赤毛は、彼が倒れた後から突然伸び始めた。いまでは毛先が床にまで達している。  ナオは、身体への急激な変化をもたらす何かを摂取させられた。  それだけではない。  胃の中のものを全て吐き出させ、加えて汎用的な解毒剤を飲ませたのにも関わらず、症状は改善されるどころか進行している。遠隔か何かで、呪いも受けているのではないかと思われた。  大学構内では、偶に魔法使い同士で小競り合いや喧嘩が起こることもある。それは一般的な大学生同士で起こるのと同じくらいの頻度のはずだ。  でも、ナオのは一方的なものだった。  ただの悪質ないたずらか、本気か。目的はいまのところ、さっぱりわからない。 「E-E-R……これも反応無し? くそっ、相手は魔術師じゃないのか!?」  ヨーロッパにおける一般的な魔術師が使いそうな呪文(スペル)は、もうほとんど試した。もしかしてアフリカ系? まさか、東洋系じゃないよな。  いや、まだ残っていた。これじゃなければ良いのにと思って、残していた鍵。  ぼくは大きく息を吸った。 「ドミネ・デウス……」  ナオの身体がびくりと揺れ、ラテン語への明らかな反応を見せた。 「くそっ、やっぱり悪魔召喚か!」 「ぐっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」  ナオの口から、ナオの声とはまるで違う声色の叫び声が上がる。ナオはバタバタと手足をばたつかせ、身体をよじり暴れる。  手足を縛っておけばよかった! このままではナオは自分で自分の身体を傷つけて、 「えっ!?」  ナオの身体から、蒸気が立ち昇り始めた。ぼくの視線は、特に蒸気の濃い、股間の辺りに吸い寄せられる。  白い、平均的なサイズと思しき性器が、しゅるしゅると音を立てて縮んでいく。  皮膚が襞を形成し幾重にも重なり合いながら、性器は更に縮み、毛量も色も薄い陰毛の中へ吸い込まれていった。  上半身は、暴れているのではっきりとは分からないが、胸元の薄いピンク色をした乳輪が心持ち拡がり、乳房が少しずつ膨らんでいっているように見える。 「い゛っ、あ、ぐっ、あ゛ー!!」  両足をがんがんとベッドに打ち付けのたうち回るナオを見て、ぼくも頭を壁に打ち付けたくなった。 「なんてことだ、性転換だと!?」  性別を、短時間で無理矢理作り変える。悪魔召喚の中でも、かなり高度な術だ。そして古い。文献でなら読んだ事はあるけれど……  悪魔払いをやらなければならない。それだけではなく、たったひとりで、悪魔と戦うことになる。思い至って、ぼくは総毛立った。  いや、怖気付いてる場合じゃない、これ以上身体の変化を放置するわけにはいかない!  ぼくは無理矢理足を動かし、机の引き出しを開け、左手に手袋を嵌めた。ロザリオを右手に持ち、机の上に置いていた水差しに向かって聖別を行った。  ロザリオを首に掛け、水差しの中に右手を突っ込み、濡らして部屋中に雫を振り撒く。その度に、ナオが叫び声を上げる。  水差しの半分くらいを使い切ったところで、暴れるナオの胸元に左手を置いた。途端にナオの動きが鈍くなる。  手袋に描かれた魔法陣が、ぼんやりと光を放つ。相手の身体の動きを封じる『剛腕の腕輪』という魔法具の変形バージョンだ。  良かった、授業中に作成したアイテムを取っておいて。こんな使い時は全く想定していなかったけれど、役には立った。  ぼくは水差しを床に置き、水に浸した右手人差し指で、もがき続けるナオの額、両手の順に十字架を描く。 「天にまします(しゅ)よ、その御名(みな)永久(とこしえ)に崇められんことを」  右手にロザリオを持ち直した。悪魔祓いの始まりだ。 「父と子と精霊の御名において」 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!」 「この者を憐み給え、救い給え、守り給え」 「ぐ、ぞっ! や゛めろ゛おおお!」  ナオはぼくの左手から逃れようと懸命に身体を動かす。けれど、『剛腕の腕輪』の効力のお陰か、連れ去られて本格的な魔法を行使されなかったためか、いままで経験した幾多の悪魔祓いのどれよりも、抵抗が少ない気がした。  いける。  ぼくは口に溜まっていた唾を飲み込み、更に祈りを続けた。 「聖ミカエルよ、御力により、この者を救い給え。聖ガブリエルよ……」  祈り続けて、二時間は経過していた。  ナオが暴れなくなってしばらくの間は、胸の上に置いた左手を離さなかった。こちらを油断させるためにわざと沈黙する悪魔もいるからだ。  ナオの現在の症状は、発汗と震え。最初とは正反対に、全身が真っ赤に染まっている。ぼくは左手をゆっくりとナオの胸から退け、握りしめていたロザリオを手放した。  額に右手を当てる。かなり熱い。ナオの息は上がっているが、 ごく普通の(・・・・・)発熱の症状と変わらないように見えた。免疫系が正常に働き、身体の中に入り込んだ悪いものと戦っている、風邪の時の様な症状だ。  悪魔は去った、とみるべきだろう。後は徐々に身体が元に戻るのを待つ。  完全に晒された身体に何か掛けてやりたかったけれど、まだまだ身体の変化を観察すべきと判断し、そのままにする。  ぼくは聖別した水差しを机の上に戻し、本来の用途通り、一緒にトレイに載せて持ってきていたコップに水を注いで一気に飲み干した。 「しかし……」  厄介なのに目をつけられたものだ、と思う。  相手は十中八九、古い魔術を伝え残してきた家、つまりは旧家。いまもその魔術を行使できる環境が整っていることを考慮すると、貴族クラスとみて差し支えない。  また、 犠牲(いけにえ)に出来る人命を、いとも簡単に準備できる程の家。  別に性転換を否定するわけではない。自分を自分らしく生きるために、性転換が必要なこともあるだろう。心と身体の不一致は、きっと精神的に辛い状態だ。現代においては、もっと効率の良い魔術も開発されているし、魔法を使わずとも、最新の科学技術で性転換の希望を叶えられる幅も広がっている。  問題なのは、悪魔召喚で無理矢理性転換させる場合だ。  悪魔召喚は悪質で残酷な魔法だ。願いを、悪魔の力によって通常よりも簡単に、素早く叶えることは出来る。けれど効力が苛烈な分、持続時間が短く、かつ術者を含め複数の生命を危険に晒す。人の命が軽かった時代の遺物なのだ。  今回の悪魔召喚でも、召喚に使用した魔法陣の側で、人ひとりは確実に死んでいるだろう。  それに、命を奪われること以上に、悲惨な結果に陥ることだってある。全ては悪魔の気分次第。  ナオの使い魔を外に出しておいて良かった。魔女の使い魔は、本人との精神共有があったはずだ。直接見られていたらと思うと、ぞっとする。  本人の望まない、急激な身体の変化は精神と寿命を激しく蝕むとどこかで聞いたことがある。考えれば納得がいく、それは心と身体の不一致を強制的に押しつけられることに相違ないのだから。  いずれ本人に今回のことが知られることになったとしても、使い魔が直接視覚的に認識して、それが本人に伝わるよりはまだマシだろう。  しかしどうしてナオの性別を変えようとした?  ぼくは椅子を掴み、ナオの様子が見えるよう、ベッドの近くまでずらして腰掛けた。  スオウ・ナオ。入学してきた当初は、見た目こそ整い、小綺麗ではあったものの、本人の愛想の無さと人付き合いの悪さから、あまり目立たない存在だった。グループ研究でエッセイ作成と実験に熱心だった彼はぼくと話が合い、次第に一緒に行動するようになった。ただそれだけの、一般的な学生だった。  変化が起こり始めたのは数ヶ月前だ。  遠く離れた恋人のためにと伸ばしていた髪が魔力を帯び始めた。髪に魔力が宿ることは、魔法使いにとって珍しいことではない。  ナオの場合は魔力に加えて、人を魅了する何かも付加されたらしい。女達から注目を集めるようになったが、何故か、男共からより爆発的に好かれるようになった。  ナンパまがいの告白だのセクハラな声掛けだのプレゼント攻撃だの、彼らの好意の表現方法はなかなかに激しく、近くにいたぼくもかなりの確率で巻き込まれていた。  いや、だからどうだっていうんだ。  魅了されていたとして、どうして大きなリスクを背負ってまでナオの身体を性転換させなきゃならない?  そういえばかなり前、召喚関連の文献で読んだことがあった。その昔、貴族の間ではより魔力の強い同性を攫い、肉体の改造を行い、孕ませて……  いやいや無い無い、どんだけ時代錯誤なんだよ。 「ま、その時代錯誤に合わせて対処できるんだから、人のこと言えないけどね」  首に掛けたロザリオを眺める。 「……ナオの身体、長くかかるとしても、兄さんに気づかれる前に元に戻って欲しいな」  今日あったことを、報告なんてしたくない。  ぼくがUKに残るために出された条件は「悪魔に関連する人物を見つけた場合は観察し、定期的な報告をすること」だった。  ナオを監視しなくちゃならなくなる。ただでさえ周りに自分の出自を知られないよう、いつも気を張っているのに。ぼくの動きを不審に思った誰かや今回の相手にぼくの事を知られでもしたら、魔法使いの世界から間違いなく追い出される。  それにもしぼくが悪魔祓いをしたと知ったら、ようやく信仰心を取り戻したのかと兄さんは狂喜乱舞するだろう。そして本部に強制送還される。  信仰心。神の(わざ)を成すのに、信仰心が必要?  バカな。  神の業を、魔法を行使するのに信仰心が必要なら、どうして混沌魔術師が存在できる? 魔法を行使するのは魔法陣と、魔力。体系化された仕組みを理解し、流れの通りに魔力を使えば魔法を起動させるなどたやすいことなのに。  しかも彼らに至っては、自分達のことを魔法使いと認めてもいない。  信仰を理由に、思考を止めている人達。ぼくは考えることを止めたくない。無闇矢鱈に何かを信じて、真実から目を背けたくない。  信仰心のみ建前に、ひたすら“悪魔”と向かい合う日々の中、主の加護を疑い、自分を見失い、命や人の尊厳まで無くしそうになる生活になんて、戻りたくない。  彼らを否定するために、ぼくは混沌魔術師になることを選んだ。  ぼくは以前に家族と交わした論争を思い出し、イライラし始めていた。  そう、全てが順調に終わったと思い込み、気が緩んでしまったのだ。

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