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Chaos magician 混沌魔術師2*

 ぼくはもう一度水を飲みなおそうと椅子から立ち上がり、机の方を向く。  ひやりと、氷のような冷たい感触が左手首を覆った。  驚きでひっ、と息が詰まる。もの凄い力でぐんと後ろに引っ張られ、バランスをやや崩したまま振り向くと、 『……あら、お前なの、私を呼び出したのは』  カッと開かれた赤色の目。大きくたわんだ胸。黒にほぼ近い、暗めの赤だったはずの髪色が、頭頂部から床に伸びた毛先まで、真紅に染まっていた。 「ナ、オ……!?」  思わず名前を呼んでしまい、咄嗟に右手で口を塞ぐ。  ナオがいたはずのベッドの上に、ナオと同じ顔をした、見知らぬ女が立っていた。 『お前が、私の息子を()に変化させたのね』 「い゛っ!?」  手首に激痛が走る。見ると、黒々と伸びた女の爪が、ぼくの左手首に食い込んでいた。温かい血が、ぼとぼとと床に滴り落ちる。 『上出来だわ! そうね、ご褒美に、私の血肉にしてあげる。光栄に思いなさい』  ひゃっはっはっはっはっは、という甲高い笑い声に、背筋が凍る。  掴まれた左手を、ばっくりと開けた口に持っていかれる。大きくなった犬歯から、涎がだらりと垂れ下がった。  先ほどの悪魔とは全く別種だ。  ぼくは左手で拳を作り、つけっぱなしだった『剛腕の腕輪』に魔力を送って再起動させ、心の奥底から湧き出して全身を覆いそうになる恐怖を、女の手と共に思いっ切り振り払った。 「おっ、お前は、誰だ!」 『ふうん、まだ口が利けるなんて、なかなかやるわね。じゃあ、特別に教えてあげるわ』  女はニタリと笑い、赤く艶めく分厚い唇を、ゆっくりと動かした。 『そうねえ、覚えてる限りだと、私って、人から“赤毒”とか“紅き災厄の魔女”って呼ばれてた気がするわ』  まるで呪いの様な響きに、全身が震えた。 「『黙れ、この人から出て行け』と、主は仰った!!」  ぼくは反射的に、大声で言い放った。 「悪しきことに我が心を傾けさせず、不義を行う者と共に悪しき業にあずからせるな!」  机から後ろ手でロザリオを掴み、女の方へ突き出して、あらん限りの気力と声を振り絞る。 「主よ、我らを憐み給え、救い給え、守り給え!  この者から悪を退け給え!!」 『無駄よ、そんなことしたって無駄……』  ぼくの言葉に対し、女は全く怯む様子が無い。一歩二歩と近づき、真っ黒い爪の伸びた手が、ぼくの首めがけて伸ばされ……  ぱあんっ、と何かが激しく弾けて、ぼくは一瞬、目を閉じてしまった。  慌てて目を開けると、まるで何事も無かったかのように、ナオが寝息を立ててベッドに横たわっていた。  髪の色が、元に戻っている。目の色まで確認する勇気も力も残っていなかったけれど、 「終わった、のか……?」  ぼくは床にへたり込んだ。  終わらせたのはぼくじゃない。手ごたえは全く無かった。もしやと思い、ちらりとナオの下半身を見る。  やっぱりそうだ。幾重にも皮を被った状態の性器が、陰毛の中から顔を出し始めていた。胸はまだ膨らんだままだが、先ほどまでのボリュームは無い。  あの女はナオのことを器に変化させた、と言った。恐らく女体化のことに違いない。完全な女体ではなくなり、器として合わなくなったから、彼女は出て行ったのだろう。いや、追い出されたのかもしれない。  左手首の焼け付くような痛みに顔を顰める。近くに拭くものも無かったので、まだ血が流れ出ている辺りを右手で握って押さえた。  いまのはどういうことなのだろう。  ナオはぼくが出自を問うた時、生まれも育ちも日本だと答えた。嘘を言っているようには全く見えなかったし、秘密を抱えているようにも見えなかった。  対して、先ほどナオを「私の息子」と呼んだ女は、肌の感じからしてコーカソイド。魔力も、東洋系の気配ではなかった。悪魔でもない。あれは間違いなく人で、魔法使い。魔女と名乗っていた。  そして、呪い返しの魔術や悪魔の類を数多く使役した者独特の残滓がかなり色濃くナオの身体に纏わりついていることを考慮すると、かなり(ごう)の深い人物だと推察できた。  ぼくは、大きく息を吐いた。  言えない。これは悪魔召喚での身体の女性化以上に、ナオ本人には絶対言えない。本人にどんな影響が出るのか、全くの未知数だからだ。  しかも、間違いなく要報告レベルの案件。  いいや、絶対に兄さんには言えない。ぼくも大変なことになるが、ナオは更に厄介なことになるだろう。  なんてことだ。  自由になるために、家族から、兄さんから距離を置いたのに。本部から隠しておくにしろ、母親? から守るにしろ、まさかこれからずっとナオに縛られることになるのだろうか。自分の事がばれないように気を配りながら?  兄の嬉しそうな顔と、言いそうなセリフが頭をよぎる。 「全ては、神の与えたもうた試練だよ、ロビン」  悪魔払いなんて二度とやりたくなかった。逃げるには、家族から離れるしかなかった。でもぼくには魔法以外に取り柄がない。だから、魔法の世界を、混沌魔術師を選んだのに。  ぼくは右手の甲で、自分の額をゴリゴリと押した。 「冗談キツイ……」  夏休み期間に入り、ナオとはさっぱり会えなくなった。  休み中に何かあってはと気が気ではなかったので、定期的にメールを送り、様子を窺っていた。メールによれば、ナオはカヴンのプリースティスの屋敷に滞在したり、パートナーの引っ越しがあったりと、忙しなく動いているようだった。  なんにせよ、ひとりきりではないし、魔法使いと共に行動しているようだったので、ぼくから無理に会いに行くことはしなかった。  新学期前日、大学の附属図書館図書館から出て構内を歩いていると、久々にナオと遭遇した。  ナオは、同じくらいの背丈の東洋人の男性の手を握って歩いていた。ぼくの存在に気づくと、慌てて彼の手を離す。顔から、血の気があっという間に無くなった。 「やあ、久しぶりだねナオ。どうして手を繋いだままにしない? 彼、不満そうだよ」  ぼくは笑いながら、あいさつ代わりの冗談を飛ばした。  ナオは、目と口を大きく開いた。 「ひ、久しぶり……って、え、ロビン、僕のパートナーが男だって知って驚いたり、嫌だって思わないの!?」 「うん、別に。性的指向は人それぞれだろ」  むしろ、女性だけでなく、あんなにたくさんの男共に追いかけられていた理由がやっと腑に落ちた。と同時に、ぼくにその素養が全くないことも理解する。 「ぼくは友人(・・)の指向に対して、とやかく言うおせっかいで鬱陶しい人間でもないしね」  ぼくはわざと、友人という言葉を殊更に強調した。  ナオは嬉しそうに微笑み、隣に立つ男性の手をきゅっと握り直した。先ほどまでとは逆に、顔が赤く染まる。 「ありがと、ロビン……あ! 僕、ちょっとだけ教授室に顔出してすぐに戻ってくるから、新太、そこのベンチに座って待ってて。  じゃあロビン、また明日からよろしくね!」  恥ずかしさを隠すためか、ナオはぼく達を置いて校舎の方へ早歩きで行ってしまった。  ぼくはナオの背中を見送るパートナーの方を窺った。  結局、一年の終わりまでナオにしつこく付き纏っていた不穏な気配。久々に会ったナオから、その気配は一掃されていた。理由は明らかに、このパートナーだ。  彼から感じるのは、魔法使いに近いけれど、どこか違う気配。圧倒的な存在感。まるで太陽のように明るく力強い。東洋の陰陽思想を想起させる。あの女のせいもあるのだろうが、ナオから陰を感じるならば、彼の気はまさしく陽だ。  どういう経緯で想い合うようになったのかは知らないが、ふたりが一緒になったのは、とても自然なことだと納得できた。  さて、彼に話すべきか、話さざるべきか。  ぼくの逡巡は、こちらを振り向いた当の本人からあっという間にかき消された。 「直に何か、あったのか?」 「君は……」 「いわゆる魔法使いじゃない。でも、一応その付近にいる人間、かな」 「ふむ、なるほど」  飲み込みも察しも良いようだ。ぼくは彼を近くのベンチに誘った。近くに人通りも少なかったけれど、念の為、腕を振りまじないを小声で唱えて人払いを行う。 「はっきりと伝えることはできない。君を巻き込むことになるし、ぼく自身の事情から、やりたくないことをせざるを得なくなる可能性が出てくる」  一度息を吐き、下唇を軽く噛んで湿らせた。 「ナオはここ半年の間に、厄介な奴から目をつけられ、仕掛けられた。そのせいで一度、大きな呪いを受けている。呪いは身体の変化を伴う、極めて重大で、悪質なものだった。  幸い、彼が呪いを受けた後、ぼくがすぐに処置を行って対処できたし、後遺症も、恐らく無いと思われる」  非魔法使いであろうナオのパートナーは、理解できているかどうかはさて置き、ぼくが話すことをじっと聞いていた。 「相手は名のある、伝統的な魔術師の家系の者だ。名前までは突き止めた。しかし、申し訳ないがこの事件について、公にして断罪をすることはできないと考えている。  ナオ本人には相手の名前と、重大な事件であったこと、彼自身に起きた身体の変化と呪いの解除の詳細を伝えていない。これは彼の生命と精神を守るためだ。そして周りにも伝えられない。これは彼の生活と、ごめん、本当に申し訳ないけれど、ぼく自身のためだ」  これ以上下手に動いて、ぼくの出自が周りに知られること、そしてぼくの一連の行動が兄さんに知られることは、断固として避けなければならないんだ。  心の中でこっそり、つけ加える。 「それから……詳しいことは話せないんだけど、聞かせて欲しいことがある。君は、ナオの母親について知っている?」 「いいや、何も知らない。直も、直の養父も、生みの母についての情報は持っていないと思う」  彼は、ゆっくりと言葉を選びながら返答した。  では母親の方については今のところ手掛かり無し、当面様子見ということになるだろう。 「正直に答えてくれて、ありがとう」 「あんたが真摯に話してくれたからだ」  ぼくの言い分はずいぶん手前勝手なものなのに、彼は真摯と判断したらしい。若干驚いていたぼくに、それで、と彼は続けた。 「いま、俺に出来ることはあるか?」 「ああ。まず、いま話したことは全て、ナオには秘密にしておいてくれ。何が彼に影響を及ぼすか分からない。  それから、今回の件の発端は、彼が髪を伸ばしたことにあった。事件が起きた後、切って欲しかったけれど、ぼくから言っても全く受け入れてもらえなかったんだ。君から切るように言ってもらえる?」 「髪か。了解した」  一旦、沈黙が降りる。ナオのパートナーは、こちらを見て、自分の手を見て、またこちらを見てようやく口を開いた。 「……あー、実は俺、魔法についてはド素人レベルでさ。魔女のカヴンに仮で入れてもらったこともあるが、魔法使いじゃないんだ。  それからあんたの話の中に出てくる単語も、知らないのが含まれてたからそれは後で調べる」  でも、と彼は丁寧に言葉を繋いだ。 「あんたにだって事情とか、いろいろ葛藤だってあったろうに、直を守ろうとしてくれていたってのだけは充分理解できた。ひとりで辛かっただろ、ありがとな」  なんてことだろう。ぼくは息を飲んだ。さっきから不思議な人だとは思っていたけれど、こんなこと言ってくれるなんて。  目の奥がじんと熱くなるのを誤魔化すため、 「君が察しの良い人でほんと助かったよ……そういえば、名前を言ってなかった」 「ああ、そうだった! 俺は当麻新太。新太、でよろしく」 「ぼくの名前はロバート・アシュトン。混沌魔術師だ。ロビン、って呼んで」  右手で握手し合う。硬くがっしりとした手の平を感じ、どうしてだか、ひどく安心した。きっとこの人さえ傍にいれば、ナオは大丈夫だろうと思えた。 「なあロビン、ケイオス……混沌、魔術師って?」  アラタが握手したまま、身を乗り出して聞いてくる。彼は元々、人懐っこい性格なのだろう。 「ああ、簡単に言うと、信仰や信念に関係なく、いろんな魔法の系統から実践方法を拝借する魔法使いのことだよ」 「へー、そういう人達もいるのか!」  目を輝かせたアラタは、何度も頷く。 「……お願いをするまでも無いことだと思うのだけど。アラタ、君はナオから目を離すこと、無いよね?」  アラタはぼくの手を離し、居ずまいを正して向き直った。 「ああ、もちろんだ、ロビン。目を離すことは無いし、これからは直を決してひとりにはしない。  俺達は、ふたりでひとりだから」 「ああ、アラタ」  アラタの物言いに感嘆したぼくは、自分でも思いもよらないセリフを吐いてしまった。 「君の存在はきっと、主がナオに与えたもうた福音なのだろうね」 「……ふうん、まるでどっかの信者みたいな言い方だな」    アラタが、いたずらっぽい目でぼくを見た。その視線に含まれる意味に気づいて、ぼくもふっ、と笑ってしまった。 「なるほど。察しが良いのも考えものだね」

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