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Turning point 転換点2
「……っはっ! ごほっ」
息が止まっていたらしい。空気の塊を急に取り込んだせいで、喉が刺激を受ける。咳が止まらず、涙も溢れ出る。
というか、視界が暗い。温かいし動き辛い。
気づいて、全身が一気に熱くなった。
「……すまない、君が意識の無いまま歩いて、倒れそうだったから、つい」
教授に抱き締められていた。紅茶と、教授の柔らかく温かい香りがする。
背中に回された手が離れそうになり、わたしは咄嗟に教授のベストを握りしめてしまった。
「あ……」
「うん、まだひとりでは立てないのだろう。掴んでおきなさい」
教授は、片手を再びわたしの背中に添え、もう一方の手で自身のハンカチを差し出した。ありがたく受け取って涙を拭く。
「何か視たのだね」
「はい、例の事件の、新しい被害者ふたりを視ました。ひとりは負傷、もうひとりは……亡くなりました」
「そうか」
「亡くなった方は分かりませんが、一緒にいたもうひとりは、魔女のようでした」
「なるほど」
教授はわたしの頭を優しく、ゆっくりと撫でる。
「……最近、また報告が増えてきましたね」
「あの事件に関すると目されている者達に、動きがあったようだ。明日、明後日には更に上がってくる情報が増えるだろうね。君が視たものに関しては、落ち着いた後で、報告書を」
「はい。後ほど作成しておきます」
よほど、わたしの顔色は悪かったらしい。教授はまだ、抱き締めてくれている。
教授の、規則正しい心音を聞く。わたしは頭を撫でられながら身を委ね、目を瞑る。
ああ、この時間が永遠に続けば良いのに。
「ユズキ、そろそろ落ち着いたかな?」
「……はい、ありがとうございました」
教授の手が、今度こそ背中から離れ、わたしもゆっくり一歩、身を引いた。
「さて、紅茶を入れてくる。君は掛けておきなさい」
来客用のソファを指し示され、わたしは腰掛けた。部屋を出て行く教授の背を見守り、扉が閉まってから、大きくため息を吐いた。
周りを見渡す。本がぎっしり並べられた本棚、蛍光灯、雑然としたデスク。いつもの教授室だ。
首にかけて服の中にしまい込んでいた水晶のペンダントを取り出し、両手で包み込む。
わたしは小声で、カヴン『梟の目』の女神に、簡略化した感謝の詩を捧げた。
終えると、水晶を手放し両手で顔を覆う。
あの事件に関しては、既に数多くの未来視が報告されている。わたし自身、何度も視ている。先刻視た映像はその中のひとつだ。被害のレベルとしてはまだましな方だった。もっと悲惨なことになっている人も、たくさん視た。でも。
聞き覚えのない鈴の音と、介入してきた力ある誰かの声。
映像での先視なんて、生まれて初めてだった。しかも、有無を言わさぬ強制力。彼らの内どちらかが、女神、もしくは男神から特別な加護を受けている可能性がある。あるとしたら、魔女の彼?
彼らの未来を変えてくれ、ということだろうか。
「もとはひとつ、か」
本当は、他人のことなど考えている余裕は無かった。
目を閉じればいまでもはっきりと思い起こせる程に強烈で、絶望的なわたしと教授を待つ未来。どうにかしなければならないのに、まだ、手立てが見えてこない、避けられない未来。
考えたいことが山のようにある時程、思考は混乱し、停止しやすい。
教授に相談してみる?
いいえ、駄目。先視が映像であったことと、事件との関連性が判然としない。事件に深く関わると分かるまでは教授には伝えないでおきたかった。彼にとって、余計な心配事は増やしたくない。
でもどうして、わたしにあの映像を見せたのだろう。恐らくあのふたりは、日本の学生のはずだ。彼らと関わりができなければ、どうすることもできないのに。
そう、関わりを持てないのならば、わたしにあんな未来視が出来るはずがないのだ。
約二か月後。日本から『教員免許取得済の術師に関するガイドライン』に則り、一年契約で臨時教員になるよう、お達しが来た。
『魔女がひとり高校に進学するが、担任に適した教員免許取得者が確保できない。貴殿に、協力を要請したい』との内容だ。あの時期外れの報告書はどうやら、書類審査のようなものだったらしい。
わたしは日本へ帰国し、そして赴任先で、周央君と当麻君に出会った。
実は、ふたりが映った先視は、映像で視せられて以降、再び視ることはなかった。
「日本人」「高校生」「男の子」「ふたり」「ひとりは魔女」「トウマ」「スオウ」という断片的な情報しか得られなかったわたしは、暇を見つけては、集まってくる他の術師の情報を洗い直した。
わたし自身も、先視で視られない分、占星術やタロットを駆使し、女神もしくは男神がわたしに託したかったであろう分岐点を探った。未来を変えるための転換点だ。
大体の当りをつけ、ようやく現実がそこに到達した時、わたしは言葉を投じた。
「ふたりでひとり」
目論見通り、その後ふたりは順調に、繋がった縁を強固なものにしているようだった。
以降、彼らのあの酷い未来を視ることは全く無かったし、彼らを指し示していそうな報告を目にすることもなかった。
素直に、良かったと思った。誰であれ、あんな目には合わせたくない。変えられるものならば、変えてあげたい。
一方で、わたしと教授を待つ結末は、ずっと変わらなかった。
臨時教員の役目を終え、大学に戻ってしばらく経った後。
「どういうこと!?」
目の前に飛び込んできたイメージは、周央君と、周央君の養父の攻防。
慌てて高校に問い合わせると、体育館の裏にある倉庫に、異常があるらしい。話と先視から推察するに、どうやら周央君が、ひとりで複数の魔法陣を作り、何かをしていることが分かった。
わたしのせいかもしれない、しかも今回は、恐らく既に事が起きている。慌ててほうぼうに連絡を取り、できる限りの手回しを行って、わたしは再び帰国の準備を始めた。
「また、少しだけ日本に戻ります。臨時の手伝いは、前回と同じく史学研究室のラリーが来てくれます。引き継ぎはしておきました」
わたしは、ラリーが机を使いやすいよう、余計な書類や小物を箱に詰めていく。
教授は少し離れた場所から、右手で作ったこぶしを口元に当て、わたしの動きを眺めていた。
あまりにも長く見つめられるので、
「あ、あの、どうかしましたか?」
「君は……平気か?」
「ああ、はい、大丈夫です。慌ただしいのは否めませんが、別に大したことでは」
「……君はそのまま、日本へ完全に帰国した方が良い」
教授は険しい表情で、視線を逸らした。わたしは息を飲む。
「待ってください、それはどういう……」
「命運尽きることがはっきりと星に出ている僕はもう、どうしようもない。けれど君にはまだ、選択肢が残されている。
UKから出てしまえば、君はあの事件から逃れられる可能性がある、そうだったね?」
「は、い……」
「いつまでも、ここにいなくて良いんだ。君は既に魔法界においていくつもの論文を手掛け、魔女術 の能力も、魔女としての地位も確立している。
未来視をする魔法使いの中でも、君のように運命の揺らぎを、分岐点を捕らえることのできる者は希少だ。日本に帰国しても、きっと職には困らないだろう。
それに……それに君は大変魅力的な女性だ。そろそろ、年齢に見合ったパートナーを見つけるべきだ」
「ちょっ、と、待ってくだ」
「僕はもう、君を幸せにすることは」
教授はさっ、と右手を挙げた。
「いや、プライバシーに踏み込み過ぎだ。セクシャルハラスメントだね、申し訳ない」
「そんな、教授!」
わたしは、大きく首を振った。
セクハラと言うのであれば、いままで気軽に触ってきていた方が、余程セクハラだろう。
見た目は紳士なのに、距離感が偶におかしい。こういうずれているところが面白くて、好きだ。大好きだから困るのだ。
「すまない、本当にすまない。僕の諦めが悪いばかりに、君をここまで引き留めてしまったんだ。君は、僕と離れても平気だろう?」
平気か、と訊ねてきたのは、そういう意図だったの。
わたしは慌てて否定する。
「違います!」
「いいや、違わない。僕は事件の星読みをしてすぐに、僕の後任を探す手配はできたはずだった。なのに、君を手放してあげられなかった。僕の我儘に付き合わせてしまったんだ。
前回、君が日本に戻ると決まった際に、こちらでの契約を切るべきだった……いや、君が僕達の未来を視てしまったと泣いた夜、共に過ごさなければ良かったんだ。
それとも、事件の報告が山のように届いていた時に帰国してもらえば良かったか? いいや、やはり僕が自分の運命を知った時に、君に離れてもらうべきだったのだろう。
……いや、そもそも、僕らが出会わなければ、良かったのかもしれない。まあ、無理だったろうが」
「そんなっ」
視界が涙で滲む。
「君には、人並みに幸せを掴んで欲しい。僕のことなど忘れて」
「……諦めるのですか? わたしは傍にいては駄目ですか? わたしがこの先分岐点を見つけられるかもしれない、教授の未来だって、変えられるかもしれない!
一緒に戦ってはいけませんか!?」
教授は、小さく息を吐いた。
「何度も言うようだが、僕には、僕の運命は変えられない。僕は、読んだままを受け止める能力しか無い。ほぼ確定した未来しか視ない。というより、一度も外れたことは無い。
君だって理解しているはずだ。この約二年もの間、大学どころではない、各国の魔法使いから提出された数多くの予言を基に、僕らは事件の発生を抑え、回避する方法を探ってきた。そうまでしているのに、成果は得られていない。
事件は必ず起こる、そして僕には未来が無い。
だが君は、まだ未来を切り開くことができる、可能性がある。僕の傍を離れれば」
「……わたしだけ、逃げろと仰るのですか」
「そうではないよ」
「そうじゃないですか、わたしだけ逃げろと仰っているのと同じです!」
声が震える。気づくと、教授の声も、少し震えていた。
「ああ、認めるよ、確かに僕は、僕に関して諦めている。
しかし君のことは、君の幸せは諦めたくない。僕の望みは、君が幸せになることだ。
たとえ僕自身が、君を幸せにできないとしてもだ」
涙が頬を伝い落ちる。
教授はわたしに近づこうと一歩踏み出し、その足をまた引っ込めた。
「これから言うことは、忘れて欲しい。言うつもりは無かったのだから。
……ずっと、星読みと研究に明け暮れていた人生の中、君は彗星のように僕の前に現れた、たったひとつの愛しい星だ。だからどうか、君の輝きだけは、守らせて欲しい。
お願いだ、ユズキ。もうここには戻らないでくれ」
「っ嫌、です。わたし、は」
言葉が出てこない。何と言ったらいい、どうすれば、わたしの気持ちが伝わるのだろう。
部屋の中に沈黙が降り、わたしがひとしきり泣いた後。
わたしは机の上に残った荷物をゆっくりと搔き集め、箱に詰めた。
作業を終え、わたしはそっぽを向いている教授に歩み寄った。教授の腕をそっと掴み、つま先立ちをする。
身長の低いわたしにとっては、ちょうど唇が頬に届く距離。
わざと高い音を立てて、キスをひとつ。
教授がようやくこちらを振り向き、わたしを真っ直ぐに見た。キスをした場所から、赤色がどんどん広がっていく。
「これもセクハラなので、おあいこですね。では行って参ります。わたしの席は残しておいて下さいね、勝手に辞職の手続きなんてしたら、訴えますよ!
戻って来ないなんて絶対、有り得ませんから!」
わたしは箱とバッグを手に持ち、背筋を伸ばして勢いよく部屋を出た。両手が塞がっているから、再び流れ落ちた涙をそのままに、歩き続ける。
諦めるなんて、絶対にしない。変えられない未来など、認めない。
彼を助けて、彼の傍でわたしも生き残る。
まだ、転換点を探る時間は残っている。
これは、わたしの戦いだ。
わたしは、絶対に手に入れてみせる、わたしと教授の未来が変わる瞬間を。
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