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第73話 銀狐 向き合う 其の六

「……気配は術で変えることが出来ますが、神気の香りというのは、どうしても変えることが出来ないもの、らしいのです。貴方が媚薬を掛けられたあの夜、私は敢えて隠さずに神気の香りを放ちました。それで気付いて下さると思っていたんです。ですが貴方は、香りだけに(・・・・・)反応している(・・・・・・)状態でした」    ああ……と(こう)は心の中で呻いた。『白霆(はくてい)』から薫る、春の野原にある草花のような瑞々しい香りに、懐かしさを覚えて心が捕らわれたことを思い出す。あの香りに包まれただけで、とても安心したのだ。  その理由が何なのか全く分からないまま。  分かったのは昨日。  香りが当時の夢を見せ、忘れていた記憶を連れてきた。   「山に入ってすぐでしたね。貴方が私に『何か香りのするものを身に付けているのか?』とお聞きになったのは。そして『私から懐かしい香りがするのに、どこで嗅いだのか覚えていない』とおっしゃったのは。私はその時初めて貴方が、私の神気の香りを覚えていないのだと知ったのです。ですが……よく考えれば分かることだったんです。貴方は私が怪我を治した所為で、神気の過剰反応を起こして高熱を出し、何日も寝込んだのですから」    申し訳ございませんと、白竜が晧の手背から手を離して、再び寝台の上掛けを握る。   「私の思い込みと我が儘の所為で貴方を苦しめ、心配を掛けてしまいました。姿など変えずに貴方を追い掛けて、ちゃんと話をすれば良かった。ですが貴方に嫌われたくなかった。怯えたような戸惑いの目で、人形(ひとがた)の私を見て欲しくなかった。……本当に申し訳ございません」    白竜の言葉が湿声(しめりごえ)に聞こえた気がした。晧はまるで冷水に触れたかのようにはっとして、敏速に視線を上げる。   「──っ!」    どうすればいいのか分からなかった。  白竜の悲しそうな表情と、頬をつつと流れ落ちた一筋の涙に、胸が痛んで仕方なかった。   (ああ……やはり変わらない)    自分が神気に病られて熱を出した時も、小さな白竜はこんな風に悲しそうに泣いていた。   (……お前が悪いわけではないのに)    そして今回のことも白竜は何も悪くない。   (悪いのは……俺だ……!)    気付けば身体が動いていた。  寝台で上体を起こしている白竜に、晧は両膝をついて跨がる。少しばかり視線が下になった白竜の、頬に残る涙の跡を親指の腹でそっと拭った。  今にも零れ落ちそうなほど、涙を(たた)えている灰銀の瞳が驚きに満ちる。  つきりと胸が痛みながらも晧は、その眦に唇を寄せて軽く吸った。   「泣くな……白竜(ちび)……」    

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