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番外編 銀狐、温泉に入る 其のニ

 (こう)は何も言えないまま、白霆(はくてい)の言葉に頷いた。  普段なら普通に会話していたことが、『先に湯殿へ行く』というたったそれだけのことで、身構えてしまって何も話せなくなる。   それに昼餉のことは分かる。遅めの朝餉を先程食べたばかりだ。  だが夕餉の相談とは何だろう。少し遅らせて欲しいとかそういうのだろうか。   (……遅らせるほど、湯殿で何するんだよ……っ!)    ただの想像でしかないというのに、自分で心内に思ってしまった内容に晧は顔を赤らめた。  だが白霆は、変なことをするなよと言った自分に対して無言だったのだ。これは温泉で『する』と言ってるのと同じじゃないのか。  晧は深くため息をつきながら、脱衣処の引き戸を開けて中に入った。  脱衣処は独特の暖かく湿った空気が占めていた。その中にこの部屋に使われている木の良い香りがして、少しばかり気が和らぐ。   格子棚の中に置かれている籠の中には、白い湯浴衣(ゆあみい)が用意されていた。  宿の湯殿には後で着替える為の眠衣(ねむりぎぬ)が置かれている場合と、湯に入る為の衣が置かれている場合がある。眠衣は上衣(うわぎぬ)と下穿きに分かれているのに対し、湯浴衣は膝を隠す程の丈のある一枚の衣着だ。ここの湯殿は今着ている眠衣を脱いで、湯浴衣に着替えてから湯に入るのだろう。  晧は眠衣の上衣を脱ぐ。  ふと何かが気になって横を向けば、そこにはとても精度の良い姿見があった。   「──っ!」    映し出されている自分の姿に、晧は息を詰めて顔に朱を走らせる。  白い肌に淫靡にも浮かんでいるのは、紛れもなく唇痕だった。首筋や鎖骨、胸の漿果の近くや、臍孔の周りにまで散らばった鬱血痕が、ほんの先程まで愛でられていたのだと証明している。   直視すればするほど恥ずかしくて仕方ないというのに、どうしても目を離すことが出来ない。   (──ああもう、白竜(ちび)……っ!)    晧は心の中で呻いた。  思い出してしまう。  この肌を吸われた時の甘やかな痛みを。   (──それに……)    心の臓の少し上辺りにある、銀狐一族の次期長の証でもある紋様。  竜が翼を広げたような形をしているそれは、ずっと片翼だった。だが今は見事に両翼を広げている。これがまさに定められた(つがい)と情を交わした何よりの証だった。  同じものが白霆の胸にも存在する。彼の紋様もまた両翼を広げているはずだ。

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