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   五  タカハシと別れたあとの六時間目は、授業に出ることにした。  数学のレベル別少人数制で他クラスの生徒とごちゃ混ぜのクラス編成だから、ぼくの浮いた存在感も多少薄れるのがいい。それにぼくは理系科目のほうが得意で、数学もわりと好きだ。逆に古典だの漢文だのはジンマシンが出ちゃうくらいに苦手。 「やっぱり、この授業には来ると思った」  授業開始前にぼくが席に着いたのに気付くと、笑顔を浮かべた工藤がやってきて声をかける。これが本当に、はじけちゃいそうな素敵な笑い方でサ。それだけでぼくはもうドッキンとしちゃう。これは正真正銘本物の笑顔だなって分かる。  だからこの笑顔は胸がくすぐったくなるくらいめちゃくちゃに嬉しいんだけど、そのくせぼくは、宝玉のようなそんな工藤の笑いを一瞥しただけで、わざと不機嫌に顔をしかめてノートを開くのだ。  本来ならばそれに加えて「鬱陶しいからそばに寄るな」くらいの不良らしい台詞のひとつも吐いてみせたいのだけれど、これ以上表情筋をわずかでも動かそうものならニヘラといっちゃいそうで、舌先を噛んで必死で堪えている。 「はい。ではこの方程式を f(x) と置くとぉ、与式は…」  数学の授業中、教師の使うこの「よしき」という単語にぼくの名前を知っている数人が馬鹿みたいに反応する。しかもこの単元では「与式」は毎度のように登場するから、いちいちウケられると非常にうざったい。  席の塊っている二、三人が「よしき」「よしき」…と、笑いながら呟きを繰り返す。  ほんとにアホくせえ、ガキかテメエらはと、そもそも授業中でもあることだし、ぼくはそんな奴らのことは放っておいた。相手にするのも馬鹿らしいやと思って。  ところが先日気付いたことには、驚いたことにそんなとき工藤が、そいつらをぎらりと睨んで(たしな)めていたのだった。それにはもう、びっくらこいたよ。  わざわざ斜め後ろを振り向いて「静かにしろ」と言わんばかりに目尻をあげて、悪ふざけを制しているんだもの。たいがい温和そうなツラをしている工藤が、あんな顔をするのは珍しい。そしてその鋭い眼光が妙に凛々しくて端然としていて、北町奉行の遠山金四郎ふうなので、それに初めて気付いたときには正直、工藤を惚れ直しちまった。まったく罪深い若様だよ。  それで相手のやつらはというと、さすがに他の追随を許さないイケメン優等生のすることだから、「宮代なんか庇ってモーホーなのか」とか「教師の前でなにいい子ぶってんだよ」みたいな冷やかしを言ってくる気配はない。そしてまさしくそれこそが工藤の工藤たる人望の篤さというか、常に変わらぬ正義感からくる武名に違いないと、ぼくは思うのだ。  数学の授業が終わり、ホームルームへと向かう。教室に向かうあいだ、義理堅い工藤はぼくに並んで歩く。せっかく授業に出た宮代を一人なんかにしたらよくないとでも律儀に思っているみたいに。 「なあ、宮代。こんど僕んちで一緒に勉強しないか?」  と、突然くる。あまりに想定外なお誘いに、ぼくは思わず足を躓かせるところだった。 「な、なぁんで、オレなんだよ」  必死に顔をしかめて、ったくオレが不良だってこと分かんねーかな、みたいに精一杯グレた感じを装った。ほんとなら、うわあ、行きたい行きたいボクぅ、てなところなんだけど。 「一緒に勉強したいんだよ。だってきみ、頭がいいだろ」  と、こうこられて、また腰を抜かしそうになった。  なるほど。そうか、この言い方か。タカハシが言っていた妙に「確信ありげ」な響きというのは。 「んなわけねえだろ。アホか、あんた」 「いいや。そんなわけは、あるよ。だって僕、知っているんだもの、きみのこと」  なにかがありそうな響きに、たまらない胸騒ぎを覚えて、ぼくは返す言葉がすぐに出てこなかった。 「し…知ってるって、オレの、なにをだよ」  もっと不良っぽく言いたかったのに、狙ったよりも声が擦れた。 「隠さなくてもいいことなのに」  さらりと軽やかに言う。 (なんだと。どういうつもりだ、そりゃ)  焦ったぼくの頭の中で、困惑した思考がぐるぐると回転した。  でもこの言い方からすると、少なくともぼくのお父さんとお母さんのことではないふうには聞こえた。それでちょっぴりほっとする。  そうなのだ。  いまぼくが心配し、おびえているのは、このことだった。「あれ」だけは、「あのこと」だけは、誰にも知られたくない。そのために転校もした。なぜなら前の学校で言われてしまったのだ、「知ってるんだぜ、俺たち」って…。  ああ。この先ぼくは、いったいいつまでこれに畏れおののきながら生きていかねばならないのだろう。  殺人事件の加害者と被害者の子供。  その十字架を、いつまで、どこまで、ぼくは背負って生きていかなくちゃならないんだ?

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