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 もう、クンクンクンクン、わんちゃんみたいに鼻をくっつけて嗅ぎたい。それができないから、ぼくはほんの少しだけタカハシに体を寄せた。ちょっと腕が重なるくらい、肌が触れ合わないように気をつけながら、胸いっぱいに息を吸う――――いい匂い……幸せ――。  青い鳥。  青い鳥。  幸せはすぐ近くにあるんだよ。  青い鳥。  ということは、ぼくにとってタカハシは青い鳥だったのか。  やってきたバスに並んで座った。タカハシはぼくを窓際に座らせてくれる。お子ちゃまなぼくは、そんな気遣いがとても嬉しい。  後方の二人用の座席にGパン同士の腿を密着させて、腕の肌を擦り合わせて収まった。日に焼けたタカハシの腕はがっしりとしていて、そして肌が少しだけざらついている。こういうの、運動部のやつに多い。どうしよう。顔が火照る。まるで小学生がフォークダンスで好きな人と当たったときみたいだよ。これじゃ今夜もまた発熱しちゃうかもしれない。  走り出したバスの車窓から見える景色は時間を追うごとに田舎臭くなっていった。  まずビルが消える。マンションが消える。平成的な一戸建てが消える。昭和な民家が増えてくる。畑が増える。林が増えてくる。…あっちに見えるのは田んぼか? …サギがいる。ここ、ほんとに都内か?  こうなってくるといよいよぼくの頭の中では、行き先は二つしか考えられなくなってくる。実はタカハシは農耕少年で、ぼくと一緒に畑仕事をするつもりなのか。それとも田舎にありがちなコテコテのラブホに入って、お楽しみをするつもりなのか。  できればラブホがいい。ラブホであってほしい。  精神的にひ弱なぼくは農耕に向かないのだ。  なんと、駅から四十分も揺られてバスを降りた。  カアカアと頭上でカラスが呑気に鳴く。綺麗な空気の中であたりを見回した。ラブホはどこだ? 「酔わなかった?」  いまさら訊くから大丈夫と答えた。  公道から外れた、一台の車がようやく走れるような細い道に入った。片側には大きな一軒家が並び、片方は竹やぶになっている。蚊がいそう。うん。ぶんぶん寄ってくる。 「ねえ、あとどれくらい?」  痺れをきらして訊ねた。 「あと、ちょっと。この先」  どんなラブホが待ち構えているんだろう。シンデレラ城みたいだったらフくな。それよりもそろそろ心の準備をしておこう。ぼくを待ちうけるのは、農作業なのか、おセックスなのか。  しかし待っていたのは、当然、そのどちらでもなかった。  敷地の入り口に掲げられたでかでかとした看板が目を引く。 『社会福祉法人健鳳凰会 特別養護老人ホーム 小鳥こころの里』 (――は? 老人ホーム?)  「小鳥こころ」って、このネーミングの微妙な半端感、なに?   まさか珍しいとこって、ここ?  「やあ、宗太君、いらっしゃい」  ガラス張りの観音扉から中に入ったすぐの窓口で「お邪魔します」とタカハシが顔を覗かせると、中年のおじさんが返事をした。ぼくは所在無げな感じでタカハシの背中に隠れるように立っていたけれど、ぼくも名前を書かなくちゃならないようで、タカハシからペンを渡される。 「へえ、今日はお友達も一緒?」 「ハイ。じいさん、元気スかね」 「相変わらすだよ。宗太君が来るの楽しみにしてるから、会ったら喜ぶよ?」  へえ。タカハシの下の名前、「宗太」っていうんだ。  ぼくは記帳した自分の名前の上に書かれているタカハシの無骨な筆跡を目に留めて、思わず笑いが込みあげた。――ふふ。だって、なんかレトロで可愛い。タカハシソウタくん、か。覚えとこ。  なるほど、おじいさんの面会か。当然、ぼくは会う義理もないから部屋の前のロビーかなんかで待たせてもらうつもりになった。  小鳥こころの里は一見そっけない病院みたいな外観だけれど、内装はちょっとした観光ホテル並みに奇麗に装飾されている。ソファなんかも高級感があって、冷房も程よく効いていて心地いい。こういうのなんとなく、居住者重視の姿勢、というのかな。  ぼくは物珍しさにきょときょとと見回した。たしかに「珍しいところ」には違いないや。面白いかと問われればそうは思わないけど。しかし老人ホームなんてこの先、来る機会はそうそうないだろうし、世話になるのはきっとウン十年先で、そのときにぼくが生きているのかは甚だあやしい。  エレベーターでタカハシが五階のボタンを押す。そのドアが開いたと同時に、ぼくは広がった視界に呆気にとられた。

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