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「ね。ぼくのこと、佳樹って呼んでいいよ」  どっこいなんでかぼくは、一口喉に収めたコップを床へと戻しながら、そんな突拍子もない言葉を発していた。  自分でもびっくりして体が固まった。戸惑った目を揺らすタカハシを見て、途端に後悔した。 「いや。今の、冗談。だって、あんた、恋人がいるんだもんな。他のヤツの名前なんて、呼び捨てにしたくないよな」  これもまた微妙な言い訳になる。数秒の沈黙が過ぎて、タカハシが口を開く。 「あいつは恋人じゃないぜ。誤解しているようだから、一応断っとくけど」  飄然とした表情で答える。でも正直、なにを考えているのかよく分からない顔なのだ、これって。  釈然としないぼくは、眉をひそめて言い返した。 「じゃあ、あんたって、恋人じゃないヤツとでもあんなことすんの?」  ぼくだって人のことを責められた義理じゃない。でもぼくと悟さんの場合は、愛情のないただのSMだ。あんな愛情たっぷりのセックスをしておいて恋人じゃないって、ぼくには理解できなかった。  タカハシがやや困惑気味に首をひねる。 「うん? …まあ、ぶっちゃけ俺も、なかなか誘惑に弱い人間でさ」  ――は? ユウワクにヨワイ?  聞き捨てならねえぞ、それは。 「可愛いヤツからあんまり強く求められると、断りきれないんだな、これが」  思いがけず飛び出してきた告白に、ぼくは呆気にとられた。  つまり可愛い相手からねだられたら、断らずに抱いちゃうってことか? 「へえ…」  やっぱりとんでもない遊び人なのだな、この旦那は。いったいこれを「心優しい」とか「情味溢れる」なんて言葉で片付けていいんだろうか。 「じゃあさ。いまはステディいないの?」  オレ先輩の恋バナ聞きたいッス、みたいな後輩を装って核心を突いてみた。 「ステディ? ――いないけど」  その返事に、ぼくの心臓が不埒に跳ねる。旦那、恋人無しか。それならチャレンジしてみちゃおうかな。もっとも、この調子じゃすぐに浮気されそうだけど。 「もう何人くらいとおセックスしてんの? あんた」  ぼくの直球な質問に、ウゲ、という顔をする。 「なんで、そんなことを訊くんだ?」 「知りたいんだもん。教えてよ」  何人をおじいさんに会わせたのかバス停で訊いたときと同じ勢いで訊ねた。 「そうだな…」  今回はどうやら、自分でもいっちょ数えてみるかという気になったらしい。神妙な顔で首を傾げながら、一人一人を思い出すように指折り始める。  ひとつ、ふたつ、みっつ…と、ゆっくり数えていくその指を、ぼくはまんじりと見守った。あれ。左手にいったぞ。  やがて、もう一度右手を折り始める。――ふう、とぼくは吐息した。 「もう、いいよ。」  しょぼくれて止めた。  もう、がっかり。ぼくの心はブロークンどころかフローズンだよ。ぼくの好きな人は十八歳にしてお相手二桁。ねえ。ここでロクデナシってわめいてもいい? 「ずいぶんとお盛んなんだね。その中には女もいるわけ? この間はヤローとヤってたじゃない?」  ちょっと踏み込みすぎかなと思ったけれど、案外タカハシはすんなりと答えてくれる。 「最初の三人は女だった。でもダメだな。アレのときの女の声が、どうも苦手でさ」  そうか。それって立派なゲイだね、タカハシさん。 「ねえ。いまぼくが頼んだら、あんた、キスしてくれる?」  自分で自分の度胸のよさに感服した。タカハシも食い入るようにぼくを見つめる。初対面でぼくを見おろしたときと同じ目だ。ぼくがタバコの吸殻を落としたあとの、なんだか奇妙なものを眺めるような、でもどこかでそれを面白がってるような、揺れ動く視線。でもぼく、いまは真剣だよ、旦那。 「なんで、そんなことを言い出すんだ?」  口角を上げてにやける。恋愛ゲームを愉しんでいる、馴れきった笑いだった。  ふと気付いた。まるでちっちゃい子みたいに、この人は「なんで」とよく訊ねる。でもタカハシにとってのこの「なんで」の言葉は、ゲームの駒のようなものだ。それを使って人のことをからかっている。  それでもぼくはちゃんと伝えようと思った。その「なんで」に、真摯に答えなきゃならないと思った。だからぼくは正直に答えた。 「あんたが好きだからだよ、タカハシ」  タカハシは同じ笑いを浮かべたままで、当惑の影をすっと瞳に落とした。ちょっとの間、黙ったあとで、 「本気で?」 と、片眉を上げる。 「うん。すごく本気だよ。あんた、ぼくのこと可愛いって褒めてくれたでしょ。じゃ、少しぐらいは本当に可愛いと思ってくれてるんだよね? 可愛いヤツから強く求められたら、あんた、拒否できないんでしょ。だったらキスしてよ。いま、ぼくにしてみて」

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