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 悟さんがぼくの腕を掴んで引きあげようとする。ぼくは思いきりその腕を引っ張り返した。 「おねがい! お…おしえて!」  今度はぼくを突き放し、彼は狂気に燃えた目で睨みすえた。抑えつけられた激情でヘの字に結ばれていた唇がゆっくりと開き、音を発する。 「祐香(ゆうか)は、もともと俺の女だったんだ」  その言葉があまりに思いがけなくて、ぼくには時間が止まったように感じられた。 (お母さんが、悟さんの女――?)  いま、そう言ったのか? 「あいつははじめ俺の女だった。俺が本気で惚れて、すべてをくれて愛した女だった。大学の同級でな、婚約までしていた仲だったんだ。だのにあいつは、俺が親に紹介しようと家に連れていったときに、初めて会った兄貴にあっさりと乗りかえたんだよ。使い終わったゴミみたいに、俺を捨てて。理由を問い詰めたら、なんて答えたと思う? あなたより彼の方が稼ぎがいいでしょう、と、平然と答えやがったんだよ。ひとをバカにしたような顔で。それからさっさとお前を作って、兄貴と結婚しやがった。美しい女だったから、それまで女をとっかえひっかえしていた兄貴も、お前の母親にぞっこんになったよ。あとはお前も知る通りだろ。――淫売だろ? ああ? 売女だろうが? お前の母親は。お前もだ。そっくりだ。あの女に。まるで生き写しだ。許せねえ。お前なんか、俺がめちゃくちゃにしてやる」  そこまで言って、悟さんは言葉を切った。しゃべりすぎて後悔したとでもいうように、さらに表情を険しくした。  ――ぼくは。  呆然として彼を見上げたまま、体を震わせるだけだった。  頭は彼の話を冷静に理解したけれど、心はしんと凍りついた。  そうか、そうだったのか。  だからだったんだ。  悟さんが、ぼくを憎むのは。  すとんと腑に落ちる。全ての辻褄が合い、合点がいく。  そうなんだ。こんなにまでも悟さんがぼくを痛めつけ苦しめたいと思うのには、それなりの理由があった。 「さあ。脱げ」  いつもの調子に戻った悟さんの声に、もう抗うことなく従った。服を脱ぎ、寒さと恐怖におののく裸で四つ這いになる。冷房で凍った床は、己の業を知れとぼくをつき放しているようだった。  悟さんが後ろからタオルを口に咬ませた。涙が流れてきたので、気付かれないように俯く。盛りあがった涙が次々と床へとこぼれ落ちた。  痛いほど尻を開かれてペニスが押し入った。堪えられないような痛みだった。バスルームでは背中のことばかり気になって、油を塗ることなど思いつかなかったのだ。 「ううッ!」  しょっぱなからの激しいピストン。ああ。ああ。ああ。痛い。苦しい――――!  鞭が鳴る。 「ウウウッッ!」  激痛に耐えかね視界が暗くなって、気を失いそうになる。両手のこぶしが床の上でぶるぶると無様に震えた。  まだ全然癒えていないところに、しかも寒さに粟立ち敏感になっているところに打たれるのだからたまらない。 (けれど)  ああ、そうとも。  分かっている。  これは、贖罪なのだ。  ぼくはひとり納得してコクコクと頷いた。  これは母親がこの人を傷つけてしまったことへの、贖罪。  いや――そればかりか、ぼくがこの世に生まれてしまったことへの、贖罪。  そうだ。ぼくさえ生まれなければ。  ぼくさえ、作られなければ。  ぼくさえ生を受けさえしなければ、もしかしたら父と母は結婚しなかったかもしれない。 (死にたい)  そうだ。  死んでしまえば、どれだけ楽だろう。  もう、いい。ぼくは頑張った。これまで一人でなかなかよく耐えてきた。だから、もう死んでいい。それで許しを請おう。  『一死を以って大罪を謝し奉る』  いつだったか思いついたよりは鮮明に、前向きに決意した。  ぼくがいる限り悟さんが解放されることはない。むろんぼく自身もだ。だから、ぼくはいなくならなくてはならない。  再び背中が鳴った。苦しみに悶える声が分厚い壁に吸い込まれてゆく。 (寒い…! 痛い…!)  だから死のう。死のう。死なねば。  でも。 (――だけど)  人間らしい感覚が残る脳の一点で、ぼくは夢中で自分に言い聞かせた。  ほんの少しだけ、心残りがあるだろう?  ああ。そうとも。  ぼくはタカハシを思い出していた。  もし、ここから生きて帰ることができるなら。  生きて、ここから出られるならば。そんなこと、本当にできるのか分からないけれど。  もし、その願いがかなうのならば、一度でいい。  タカハシに抱かれたい。  あの腕に抱かれ、あの腕の中で眠りたい。  一晩でいい。猫のように丸まって、幼子のようにすべてを委ねて彼の温かな腕の中で眠れたならば。  そうすれば、それができさえすれば、ぼくはすべてを納得して安らかに死ねるだろう。  もう、なにも思い残すことなく。  彼の逞しい腕と美麗な微笑をそっと心にしまいながら、ぼくは心穏やかにこの世にさようならできる。  寒さと痛みに失神寸前だった。  けれど、ただそのことのみのために。  ここで失神したらそのまま死ぬ、ということが分かっていて、そんなことになってもけして悟さんは手心を加えてなどしてくれないだろう、という予測にたち、ぼくは、ただ、生きてここから出たい、そして一度だけタカハシに抱かれてからこの世におさらばしたい、と。ただ、その目的のためだけに、身震いする寒さと狂おしい激痛に耐え、意識を失うまいと必死にこらえていた。 「つまらねえ…! なんて、つまらねえんだよ…!」  悟さんが歯ぎしりする。いったいなにがそんなにつまらないというのだろう。ぼくをここまで苦悩せしめているというのに。  轟々と室温をさげる冷房の音。  しなやかに打ちすえられる、鞭の音。  皮膚が破れ、骨が砕かれ、ゆえにぼくの喉から発せられる、悲鳴の響き。  これらが冷酷なほど一定の時間を刻みつつ、低温室に響いていた。

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