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   十一  生きてマンションに戻れたのは奇跡だったと思う。  ようやくの思いでソファに横になると、激痛にきれぎれに邪魔をされるという睡眠に再び堕ちた。  もはや睡眠だけがこのド修羅場から逃避できる唯一のすべでもあるように、ぼくは睡眠を貪った。  それでも一応十一時には意識的に起きあがって、きしむ体で悟さんの部屋をそっと覗いてみる。さしもの悟さんも、数時間前に極寒の地でセックスをしたばかりでその気にならなかったのか、寝息をたててベッドで休んでいて、ぼくは心からほうっと深い安堵の溜め息を漏らしたのだった。  背中の骨が悲鳴をあげている。きっと何本かはひびが入っているだろう。皮膚だって創傷ででこぼこになっているから、治っても元には戻らないだろうと思う。とうとうぼくも本物の疵者に成り果てたのだ。  翌日は月曜日だった。もう行く必要もない学校だからと、昼過ぎまでソファで寝転がってまどろむ。  家政婦のおばさんは相変わらずぼくに遠慮会釈ない不躾な視線を遣しながら掃除機がけなどしていた。けれどもう、ぼくにとってはそんなことなどどうでもよくって、ベランダに打ちつける雨音を聞き、目を閉じて、体を休めながらまだるっこく思考を浮遊させて過ごしていた。  気になるのは背中の傷で、夜中に鏡で見たら一面腫れて痣だらけのうえに、二十本以上の大きな切り傷があった。思いきっておばさんに頼んで軟膏でも塗ってもらおうか。でもなんの傷かと仰天させてしまうだろう。それよりも背中いっぱいに貼れる絆創膏なんかがあったら助かるのに。などと思ったり、今夜あわよくタカハシに抱かれるとしてもこれじゃタカハシの布団を血で汚しちまうかもしれないからバックでやってもらおうか、いやそもそも傷があることを覚られてはなるまい、しっかりと服を着こんでいこう、などとつらつらと考えながらも、結局、そのどれもがまったく非現実的で、遠くの出来事に思われて、ぼくは指一本動かすのも面倒なまま、ひたすら横になっていた。  とにかく二十四時間以内にあの鞭打ちセックスを二回、しかも二回目はあんな極寒の場所でやられて、ぼくは疲労困憊も困憊、打ちのめされた体を休めなければトイレに立ち上がるのだって一苦労だった。  そんな重い体を引きずるように起こして出かける準備をして、タカハシの家の前に着いたのは夕方だった。  彼が高校から何時に帰ってくるのかも分からぬまま、傘をさしながらひたすら帰りを待つ。まるでストーカーみたいだと思ったけれど、だからってインターフォンを鳴らすまでの用件でもない。  腰が痛む。背中が痛む。こんなでぼくは今夜、本当に彼を受け入れることができるのだろうか。我ながらものすごく無謀なことをしているように思われてならない。  昼間よりも雨足が強くなっていた。  雨のせいもあってか人通りはほとんどなく、ぼくはひとり海底の貝のように静かにタカハシを待っていた。  そしてようやく八時が近付いたころ、俯いているぼくにタカハシが声を掛けた。  雨がボツボツボツと傘を間断なく打ち、背後では車が騒々しく走り抜ける中で、うっかりすれば聞き逃してしまいそうな擦れた声だった。 「佳樹?」  傘の中から視線をあげて声の主を見た。右手の数歩離れたところで、タカハシが驚いた顔をして立っていた。なんでお前がここに?という困惑の表情で。  佳樹って呼んでいいよ、と、自分で言ったのを思い出した。  実際にそう呼んでくれたその一声を聞いた瞬間、ぼくは、やっぱりタカハシが好きだ、好きだ、大好きなんだと、深く自覚した。 (ああ、好き…。好きだよ、タカハシ。大好き)  心臓が熱く鼓動した。いますぐその胸に飛び込んでしまいたくなる。  だが、タカハシには連れがいた。

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