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そんなことをされたらぼくの今までの苦しみはどこにいっちまうの。
ぬくもりのない家庭、両親の殺人事件、他人からの冷たい仕打ち、転校、毎晩の強制的なセックス、殺人的な鞭打ちに、その理由を悟さんから聞いてからのこの、「死に至る病」というキルケゴールのお説のままの絶望を、精神科の医療なんかでフイにされちゃかなわねーんだよ、と叫びたくなる。
「ありがとう」
かように心の中はものすごく激動していたけれど、タカハシにコップを勧められてちょびちょびと緑茶を啜ってみると、それがとてもよく冷えていて沸騰した頭も冷やされる。
タカハシが胡坐の膝に立て肘で頬杖をついた。
鋭くもない、かといって甘くもない、あえていえば好奇の漂う流し目をしてぼくを見る。そんな視線に射抜かれ、ぼくは狂気じみた思考をやめて小さく身を縮こませた。
「で。今夜は、なんで来たんだ?」
ぎくっと体が跳ねあがる。とうとう「抱いて」を切り出さねばならない時が来たのだ。
「あの」
でも実際、どう頼んだものか。ぼくは、どぎまぎと視線をさまよわせた。
愚かしいことに、ぼくはいまに至るまでどう言ってタカハシにセックスを頼もうかなど、一つのシミュレーションもしてこなかったのだ。
「ぼく…」
いっそ股間を握って「これ頂戴」って言っちまおうか。
「どれくらいの時間、待っていたんだ?」
ところがタカハシに先を越され、開きかけた口があぐあぐと行き場を失う。
「さっき、うちの前でさ?」
「…えっと——三時間」
タカハシが絶句する。
「だいぶ、待ったんだな」
「うん…」
「なんで? なんでそんなに長時間、俺を待っていたんだ?」
ここで、ぼくはついと背中に冷や水をかけられたような感覚がして、タカハシの顔を見あげた。繰り出された「なんで?」が、恋愛ゲームのあの駒のように感じられたからだった。
思った通り、タカハシは余裕のある表情にいたずらっぽい微笑を浮かべている。ぼくはえもいわれぬ虚しさに囚われた。
(ねえ…そんなに遊ばないでよ)
(ぼくは真剣なんだからさ――――)
ぼくは、少なくとも命をかけてここにきた。そのぼくの気持ちがタカハシにはちょっとも分からないのかな。いや——分かるわけ、ないか…。
諦めて、ここはもう直球勝負で行くしかないと思った。この人の恋愛ゲームに付き合えるだけの経験をぼくは持ちあわせていない。多少でも馴れていれば、「え~? なんでだと思う~?」なんて返してそれなりに愉しむのかもしれないけれど、とてもじゃないけどぼくにそんな芸当は無理だ。
「あんたに抱いて欲しくてだよ、タカハシ」
これならストライクだろうというくらい、ストレートに伝えた。タカハシは微笑を湛えたまま、口角を僅かにさげる。
「それ、本気で言ってる?」
低い声が返ってきた。そういえばこの間のキスのときもこんなふうに言われたな。
ぼくは上目遣いで深く頷いた。頷いたあとで、その上目遣いがすげえセクシーなんだよ、と、前の高校で言い寄ってきたやつを思い出す。つまらない思い出だ。
「それで、おまえのステディは納得するかな?」
その返答にびっくりした。けれど、すぐになにも驚くほどのことじゃないと思い直す。
だってぼくは予感していたもの。
ぼくの二股疑惑というものが厳然とぼくたちの間にはあって、タカハシはそれを無視したりはしないだろうって。
「まあ、俺はかまわないけど? でも佳樹、おととい俺を窘めたろ。恋人でもない奴とあんなことをするのかって。だから、佳樹と相手って、けっこうかたい付き合いをしているんだなと思ったんだよな。別に、俺とこうやって遊ぶのもいいけどさ、セックスまでしたことがバレたら、それこそややこしいことにならないのか?」
ずいぶんはっきりとした物言いをする。
「あの、ぼくは…」
覚悟していたことだけれど、思いきり誤解されているのはつらかった。倒れそうな心をなんとか奮い立たせた。
「ぼくは、か、…彼と、別れる決心をしてここに来たんだよ? …ね。一度でいいんだ、タカハシ。あんたに一度だけ抱かれたくて、ぼく、ここに来たんだよ。そうしたら、もう来ない。迷惑もかけないし、二度と抱いてくれだなんて言わないよ。今夜だけでいいから…お願い。もうなにも訊かずに、なにも言わずに、抱いてよ。もし、あんたさえよかったら、だけど…」
顔を見たら泣いてしまいそうで、ぼくは目を伏せた。
口の中が苦い。なんてすべてが苦いのだろう。
タカハシがどう考えを巡らせていたのかは知る由もないけれど、沈黙はゆうに二、三分続いて、まるで針の筵にいるようだった。雨音だけが穏やかに続いていた。ぼくは半分、諦めかけた。
「分かった…」
タカハシが言った。それでも微かに迷っている響きだったから、目線をあげて確かめてみる。
タカハシはぼくを見つめたまま、もうからかうような微笑はなくて、なんとも図りがたい無表情を顔に浮かべている。それでもまなざしはけして冷たくなかったから、そこにだけぼくは寄る辺を得たような気持ちがして「ありがとう」と呟いた。
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