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   十四  今回はかなりはっきりと目が覚めた。明るい方に視線を向ければ、薄いピンク色のカーテンに遮られた外の日差しは強そうだった。  一方で、静かにうなり続ける冷房は心地よく、酸素マスクは外されていた。  ぼくはあてもなくじっと天井を眺めた。傷なのか汚れなのか分からない飛び飛びの模様が人の顔に見えたり動物に見えたりするのを、ぼんやりと目に映す。  まだ信じられなかった。ぼくが入院して、そのうえ手術まで受けてしまっているなんて。なんだか狐につままれたみたいだ。  本当にどうなってんの、と思う。  ぼくが頼みもしないのに、ぼくの了承も得ていないのに、当人の知らないうちにこういうことが起こりうるなんて、どういう社会の仕組みでこんなことが可能になっているのか、不可解でたまらない。  だいたい、助けてくれと一心に願っていたときには誰一人の手も差し伸べられなかったのに、死ぬんだと諦めた途端に、突然、運命が大回転したみたいに劇的な変化が与えられてしまうなんて、この世はどうなっているんだろう。  気配を感じて右を向くと、枕元のすぐ横、目と鼻の先でタカハシが寝ていた。組んだ腕枕に突っ伏しているから頭のてっぺんのつむじは見えるけれど、顔は俯いていてよく見えない。寝息と共に背中が大きく上下している。  ぼくよりずいぶん大きなその体に、いとおしく視線を這わせながら、昨夜は疲れさせちゃったよな、とぼくは反省した。  予定していたデートは邪魔されるし、ぼくの身勝手と怪我と失神に振り回されてほとんど眠れなかっただろうし、ここでは医者からいろいろと言われて神経を遣ったろうし、考えれてみれば気の毒で、心底、迷惑かけて申しわけありませんと頭をさげたい気持ちになった。  タカハシの髪から清涼メントールの匂いが漂ってくる。昨夜のセックスで抱きついたときもなんとなく感じていたんだけど、あのときは興奮しきっていたのでそれどころじゃなかったのだな。  ぼくは、せっかくのタカハシとのセックスを台無しにしてしまったのだ。  自らの狂気的な衝動に任せたまま、ぼくのアヌスの奥底にうごめく悟さんの影を、タカハシを使って打ち消そうとした。そんなこと実際にできるわけがないのに…。  右手を動かして、そっとタカハシの髪の先に触れてみる。さら、と音がしそうなくらいに柔らかで触り心地のいい、長毛種の猫みたいな毛だった。  この人が欲しい、と思うやつがたくさんいるのは本当に分かる気がする。  なによりつらいのは、タカハシにとってはぼくもその大勢の中の一人に過ぎないのだということを、いい加減自覚しなければならないことだった。  それはなんかもう、どうせヘコむだけだから考えたくもないし、そんなことを自覚しなきゃならないくらいならぼくは最初から一抜けします、ときっぱり断言したくなるような、むしろそんな中でだってぼくは頑張っちゃいますからっ、なんて言えるような前向きな男の子ならば、ぼくはここまでいろいろと苦悶してないよな、などと思い始めてめちゃくちゃに心が乱れるので、いまはやめておくことにした。  それにぼくはいまじつのところ、そんな心象的な痛みにかまっている余裕などない状態にあった。  麻酔が切れてきたのか、あの(おもり)のような体の重さはなくなったものの、反するように背中の真ん中あたりがズキズキと痛んできたし、それよりももっと切迫した痛みとして、ちょっと言いにくいことだけれどなんとペニスの中にものすごい違和感と痛みが押し寄せてきていて、頭が混乱しているのだ。  ちょっとでも足を動かそうものなら、もう、ウワッと声が出て飛びあがりそうになるほどの衝撃をくらう。ぼくは軽いパニックに陥り始めていた。なにがパニックって、ここはぼくが悟さんの鞭打ちの痛みから救い出されてやってきたのであろう場所のはずなのに、なんでまた新たな痛みを与えられていなくてはならないんだという、なんとも納得しがたい、怒りに似た感情がふつふつとわいてくるからだった。  我慢していれば治るのかとも思っていたけれど、時が経つほど痛みは増す一方で、ぼくは観念してナースコールを押した。たぶんこの看護婦マークだろうという、ピンクのブザーを押してみた。まもなく病室のドアが開く。 「あらー、起きたのね?」  二十代半ばと思われる看護婦さんで、可愛い声と明るい表情が印象的な人だ。 「ナースコール押されましたよねぇ? どうしましたぁ?」  予想外に朗らかな声に、ぼくは当惑した。  「ここ」が猛烈に痛いんです、と伝えなければならない。が、若くて美人な看護婦さんを前にぼくはソレをどう表現したものか思案に暮れたのだ。かなりどうでもいいことなのに、すごく悩んでしまった。 「あのぅ…」  口ごもっていると、看護婦さんがタカハシに目を遣る。 「お友達、寝ちゃったね。さっきの検温まではがんばって起きていたのに」  くすっと笑う。  検温? タカハシが…したわけじゃないよな。ぼくはいつのまにか検温までされていたのだ。病院てのはつくづくすごいところだと思う。 「あの、ぼく」 「はぁい? どうしましたぁ?」 「さっきから、尿の出る所が、すごく痛いんですけど…」  かなりマイルドに、でもこれなら分かるだろ、という表現を使ってみた。すごく、というところも強調した。とにかくこの痛みをどうにかしてくださいと伝わるように。

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