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第34話 私は貴方が嫌いです
「あんたはあんただろう? 代わりなんているかよ! ——おれだって、あんたが生きていてくれて、本当によかったって思った。悲しむ奴がいねぇなんて、ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」
老虎の声は、まるで咆哮だ。その言葉は、おれの胸にも染み入る。
(お前はお前だ——)
じいさんの言葉が耳元で聞こえてくるようだ。
『おれは逃げていても始まらないと思っている。確かに生まれた場所は選べない。けれど。そこからどう生きるかを決めるのは自分自身——。運命とは翻弄されるためにあるのではないだろう?』
王宮の庭で、サブライムが言っていた。サブライムは強い人だ。おれはまだ迷っている。まっすぐに前を向いて歩けない。けれど彼は違う。きっと後ろを振り向きそうになる自分を鼓舞して、前だけを見るようにしているのだ。
おれは思わずエピタフの手を握る。布で覆われていて、二回りも大きく見えるその手を——。
「凛空……?」
「おれも怖いよ。おれは、どうして歌姫の魂を持って生まれてきてしまったのかって、ずっと自分の運命に文句を言っているよ。けれど。ねえ、老虎の言う通りだね。おれはおれだ。エピタフもそうでしょう? エピタフは、おれにはなれないし、おれはエピタフにはなれないじゃない」
エピタフの真紅の瞳が揺れていた。
「こんなこと言ったら、怒られちゃうかも知れないけれど。おれとエピタフってどこか似ているのかもしれないね。じいさんが言っていたよ。お前はお前だって。それって、きっと、エピタフにも言いたかった言葉なのかもしれない」
(そうだ。じいさんの指輪)
「これ——。返す。じいさんの指輪。おれが持つべきものじゃないもの」
おれはじいさんからもらった指輪を外し、エピタフの目の前に差し出した。この状況で渡されても困る代物かもしれないけれど、返しておくべきだと思ったのだ。
彼はじっとその指輪を見つめていたが、ふと口元を緩めた。
「その指輪は、祖母が祖父に送ったもの——。貴方が持っていてください」
「でも。じいさんの形見だよ」
「だからですよ」
エピタフの瞳は曇りひとつない。明らかに、彼の中に変化が起きた瞬間だった。
「私は、貴方が嫌いでした。凛空」
「え!」
こうも面等向かって「嫌い宣言」をされると、ちょっと面食らった。
「貴方のせいで、祖父は大臣職を退いた。次に大臣となった父は、気持ちの弱い人でしたから。あっという間にカースの魔の手に引っ掛かって、王宮に反旗を翻したのです」
「スティールのお父さんと一緒だね」
「そうですね。大臣職とは、とてつもない重圧を課せられます。国政の他に、王宮での権力闘争も加わって、強靭な精神力が求められますから。弱き者は潰れる。それだけの話です」
王宮とは、ちっともいいものではない。彼らは命を賭して、課せられた運命を全うするだけなのだろう。そこに疑いの余地はないし、逃げるという選択肢も存在しないのだ。
「しかも寄りにも寄って、幼き頃より一番信頼していたサブライムは、私にではなく貴方に夢中だった。私は貴方が嫌いでしたよ。凛空」
「おうおう。はっきり言ってくれるな」
彼がおれを嫌っていることは、よくわかっていたから、別に気にするようなことでもないけれど、老虎は呆れたように笑った。
エピタフもその老虎の笑顔に釣られたように、柔らかい笑みを見せた。
「しかし、貴方は変わりました。最初に出会った頃のように、甘ったれの泣き虫ではありません。貴方は貴方なりに色々なことを経験し、そして自分でできることを模索している。——凛空。私は謝らなければなりません。冷たい態度をとったこと。どうぞお許しください」
エピタフは頭を下げた。
「ちょ、なんだよ。そんなの。やめてよ~。ねえ、老虎」
「あ、ああ。そうだぜ。湿っぽくなるだろうがよう」
「愚かしいのは、私でした」
「んなこと言うなって。あんたは綺麗だ。あんたは強い。おれはあんたに、ぎゃふんと言わされっぱなしだろう? 自信持てって。大丈夫だからよ」
老虎は一生懸命にエピタフを励ましていた。さっきまで喧嘩していたはずなのに。
「貴方にそんなことを言われても、なんだかちっとも嬉しくはありませんが——」
「おう! どういうことだよ……」
老虎は顔を真っ赤にした。エピタフは目を細めて笑った。
「朦朧としている意識の中、ふわふわとしたものに包まれていたような記憶があります。——貴方が、あの戦禍の中、私を救ってくださったのですね。ありがとうございました」
礼儀正しく頭を垂れたエピタフを見て、老虎は「べ、別にいいけどよ」と言った。
どちらも素直ではないのだ。自分の気持ちをきちんと言葉に——。そう思いかけて、はっとした。自分はどうなのだ、と思ったのだ。
サブライムが「つがいになって欲しい」と言ってくれた時。嬉しかったのに。周囲のことばかり気になった。サブライムのため——なんて嘘だ。一番素直ではないのは自分だ。
人は目の前にあるものの大切さを忘れてしまう。じいさんたちとの日常もそうだ。失ってからその大切さに気がつく。
(サブライム……おれ)
彼のことを考えていると、なんだか落ち着かなくなった。仲直りをしたはずなのに、再び揉め始めているエピタフと老虎をぼんやりと眺めながら、おれは腰を上げた。
「おれはお邪魔だから行くね」
「お邪魔ってなんだよ、意味がわかんねーし。おい! お前が食べさせていけ」
老虎の言葉にエピタフが「なんですか」と異論を唱えた。
「貴方は私の介抱にいらしたんですよね? それを凛空に押しつけようとするのですか? なんて無責任な」
「うるせーな。なんなんだよ。おれが食わせる飯はいらねえって言ったくせによ!」
「そうです。けれども、一度やると決めたことを投げ出すなど、虎族の名を汚す行為だと思ったまでです」
「なんなんだよー!」
怒っている老虎を余所に、エピタフはお盆の上のリンゴを指さした。
「これを食べさせなさい」
エピタフはまるで王様、いやいや女王様みたいだ。彼の相手をするのは、並大抵の者では務まらない。
(ここは老虎に任せよう)
おれはそっと部屋を後にした。後ろでは相変わらず揉めている声が聞えてくる。この二人は相性が悪すぎる。しかしなんだか楽しそうに聞こえるのは気のせいなのだろうか。
鎮まり返った廊下に出ると、心が落ち着かなかった。サブライムのことも。自分がこれからやらなくてはいけないことも。全てが怖い。
「サブライム……」
彼は王宮で決めた人とつがいになると言っていた。彼が別の誰かと笑い合い、幸せな時を過ごしている様子を想像しただけで、胸がちくちくと痛んだ。
しっぽが垂れてからだに巻きついた。きっと情けない姿に違いない。頑張ろうと決めても、頑張れないこともある。怖いのだ。本当は怖い。やることをやるって決めても、気持ちは進んだり戻ったりしている。
(ねえ、怖いんだ。けれど、ちゃんとできたら、サブライム。褒めてくれるかな……)
しっぽを左右にゆっくり振る。心が締めつけられるように苦しかった。
「会いたいよ。……サブライム……」
手で目元を拭うと涙がこぼれていた。本当は、わんわん泣きたいけれど、そんなことはできない。嗚咽が洩れそうになって慌てて口元を押さえる。おれはサブライムに会いたかった。
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