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第12話 「ハル」
――トクトク、トク。 彼女は彼にこの鼓動が聞こえやしないかと心配になった。この鼓動の音が、彼女の思いとはウラハラに、想いを、告げてしまいそうで、とても落ち着かないのだ。
「ふぅ……」
その一文を読んで、柔らかい溜め息を零しつつ、電車の外を流れる景色に視線を向けた。
久しぶりに電車の中で本を読んだ。でも熟読した本だから、パラパラと捲って気に入ってるシーンを読んだだけ。
恋愛小説は、あんまりかな。
でもこれは恋愛がメインではないから。
僕は、この小説を読んで昔、元気になれたんだ。新卒の社会人一年生。人見知りに、不慣れな一人暮らし、戸惑う気持ちと不安が入り混じっていた頃に読んだ一冊。
桜が満開の青空の中、僕の周りばかり春爛漫で。なんだか僕の不安の色がその春らしい色が咲き誇る中では余計に色濃くなっていく気がしていた。そんな中で、この主人公が自分に重なった。
恋愛小説、ではあるんだけれど。
どちらかというと、一人の若者が成長していく過程を丁寧に描いた作品だと思う。
僕の好きな一冊だ。
だから何度も何度も読んでいた。図書館へと向かう電車の中、思い入れのあるシーンを思い出して、今度、彼が来たらこれを紹介しようと思った。
図書館にもこの本あるし。
今、僕がちょっと読んだのは私物で。
彼にどんな本か紹介するのに、って、今、少し読み返してみていたんだ。
僕は図書館で読んで、すごく感銘を受けて、手元に置きたくて買ったほどの一冊なんですって。
「……」
うん。
次は、この一冊にしよう。
そう決めてから、またイヤホンをした。
図書館まではあと駅二つ。
到着するまではまた「オオカミサン」の歌をまた聴こうと、イヤホンのスイッチを押した。
タイトルは「ハル」。主人公の名前がタイトルになってる。
「あれ?」
表紙は、満開の桜の写真。それが背表紙から裏表紙にも続いているから、たくさんの本の中にいてもけっこう目立つ。僕はその本、一センチくらいの隙間にあった桜と青空にふと目がいって、それがきっかけで買ったんだ。
本の隙間に、春が挟まっているみたいに見えるんだ。
だから、すぐに見つけられる。
「……え? あ、れ?」
の、はずなんだけど。
「佑久さん?」
「あ、うん。ごめん。ない、みたい」
せっかく、和磨くんが来てくれたのに、お目当ての本が見当たらない。数回、指でなぞるように、ハ行のタイトルからそれを探すのだけれど。
「なんてタイトル?」
「ハルっていうんだけど」
「へぇ」
そっか。
ない……のか。少し、残念。そろそろ桜が咲く頃だからちょうど景色が作中と重なって素敵だと思ったのにな。
ないんだ。
そしたら。
「それってさ、これ?」
「ぇ? ……ぁ、うん。そう」
和磨くんが見せてくれたのはスマホの画面。それで、電子書籍バージョンの「ハル」の表紙。
「あー、映画になったからじゃん? それで誰か借りてるとか」
「映画に」
そうなんだ。知らなかった。映画はほとんど観ないから。
なるほど。それならないかもしれない。原作が映画化されたなら、あの作品に興味を持った人がいたんだ。
「だからしばらく人気なんじゃん」
「そっか。でもすごくいい作品だから。あ、そしたら、僕、私物だけど持ってる、から」
なら、僕のを貸出、って思った。そこまでしなくても、ってなるかな。でも、今、春に良さそうなの、パッと思いつかなくて。だから、じゃあ、また今度ってしたら、本を今日貸せない。本を今日貸出しないなら、返却される本もなくて。そしたら、和磨くんはもう図書館に用事がないかもしれない。次の本を借るためにだけここを訪れるのは億劫だとなってしまうかもしれない。今日持って来ているから、僕のを貸し出して、それで。
それで返してくれればいいからって。
「僕の」
「じゃあさ」
僕は慌てていた。
とにかく貸そうと。
彼がここに来る理由が一つ出来上がると思って。
慌てて。
「本、貸すよ」
「一緒に映画でも」
だから、お互いの言ってることが重なってしまって、聞き逃してしまった。
「……え?」
「あ、いや、映画で観て」
「……」
「あ、あれ。この映画、知り合い出てんの。そんで、その知り合いからチケットもらってて。二枚。だから、どうかなって。佑久さんが」
「知り合い、が?」
「そ、そう! そうなんだ。マジで。脇役だけど、動画配信しててさ、動画でコラボとかはしたことないんだけど、配信者繋がりで知り合いになって。今度映画に出るからってチケットもらったんだ。脇役の、なんか、書店員の」
「あ! そのキャラクター!」
「知ってる?」
コクコク頷いた。
登場は少ないんだけれど、落ち込むと主人公が立ち寄る本屋さんの店員。おしゃべりが好きで、本屋なのにしゃべってばかりで。でもそんなおしゃべりが主人公の「ハル」にちょっとだけ元気をくれるんだ。
「だから、チケットあるし。そんでさ、貸りるよ。そのうち、本も。映画で観て、本でも読んだら、なんか面白そうだから」
「あ」
なんだか、頬が熱くなった。
何か、とにかくこの本を貸し出さなくちゃと慌てていたのが恥ずかしかったのか。そんなふうに慌てていた僕の不器用さのせいなのか。そんな僕の言ったことをちゃんと聞いてくれていて、本を貸してと言ってくれる彼の優しさになのか。
わからないけれど、頬が熱くて。
「どう? 映画」
「ぁ……う、ん」
映画に誘ってくれた彼への返事も、不器用になってしまった。
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