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第25話 彼女の魔法

 昨日は春一番の風が吹いたと、朝、図書館で近藤さんが教えてくれた。これで春本番ですねと、笑っていた。  春が、来た。  僕は、キス、した。  キス……してしまった。  ――っぷは。  目をギュッと瞑りすぎていただろうか。  笑われてしまった。  ――やば……佑久さん。  そう言って、笑われてしまった。  やばいほど変な顔で目を瞑っていたのだろうか。キスなんてしたことないから、よくわからなかった。口、なんというか、どうしたらいいのかわからなかったから。あ、でも。  ――可愛すぎ。  そう言われていたから、可笑しい顔ではなかった、のかもしれない。  可愛かった、だろうか。  彼には可愛く見え……ていたらいいな。  でも、可愛い女性ならたくさん知り合いにいそうだし。実際、ほら、あの若葉さん、だってすごく可愛いし、綺麗だし。まるで芸能人、というか映画に出演していたからすでに芸能人なんだ。芸能人の知り合いだなんてすごいなぁ。芸能人なんて美男美女がずらりといるでしょう? だから男で、本当にどこにでもいそうな一般人なんて。  なんて。  本当に、全然なわけで。  若葉さんと並んでしまえば見劣りするに決まって――。 「あいつ、手、早いよ」 「っ、!」  驚きすぎて声を出すのもできなかったくらいに、すごくすごく驚いた。  もしかしたら、心臓、一瞬、止まったかもしれない、というくらいに、すごく、驚いた。 「こんにちは」  カウンターの中で、雑務をしながら、ふと、手を止めて、昨日の出来事を思い返していたら、声かけられて、側から見たらリアクションもなく、とてもつまらない反応かもしれないけれど。  僕は今、ものすごくびっくりしすぎて固まってしまった。  彼女、だった。  和磨くんのカノジョではなかった彼女。  芸能人で、とても綺麗で  とても可愛い、若葉さん。 「ごめんね。驚かせて」 「ひ、ひえ……いえ」 「昨日は突然押しかけて」 「あ、いえっ」  どちらかというと今のほうが、昨日よりも驚きました。 「あいつ、すっごく手早いからって言おうと思って。でも、でもね、良い奴なので! 人に対しては誠実だよ? ちゃんと、遊んだりとかちゃらんぽらんをするような奴だったら、私も友だちにならないし」  そう、なんですね。  そっか。  友だち、なんだ。  いや、あの、和磨くんが昨日言ってたことを疑ってた、とかじゃない、です。でも、和磨くんはそう思ってなくとも、彼女、は、若葉さんがどう思ってたかまではわからないから。  あ! いえ! その、若葉さんのことを僕がどうこうとか思ったりないです。ライバル視とかじゃなくて。うん。  ライバルだなんて、烏滸がましいことは、全然。 「だから、その点では安心して? 保証します。チャラチャラしてそうな見た目だけど、チャラチャラはしてないから! …………って、あ」  全然思ってないです。 「もう手、出された?」 「!」  その一言に、今、胸の内だけで、おかしな声で返事をした。  だって、そんな、僕、顔に出てたのかな。 「あ、大丈夫。そういうの勘鋭いの、私。だから、わかっちゃっただけ」  え? 今も僕の心の中を読んだんですか?   今度は何も言わずにカウンターのところでにっこりと笑っている。まるで、「うん、そうだよ」と返事をしているみたいに笑いながら、両手に本をたくさん抱えてる。  あ。  その小説、すごい面白いんだ。 「これ、面白そうって思って」 「ぁ、はい」  面白いですよ。なかなかに癖のある登場人物ばかりで、これ、最後ちゃんとまとまるのかなと心配になるんだけれど、ちゃんと最後、スッキリします。さすがと唸るくらい。 「和磨、すっごい嬉しそうにしてた」  その小説、すごくおすすめなんですって言おうかどうしようか迷っていた。おすすめなんですと言ってしまうことすら、ネタバレと思うかな? とか、考えてしまって。面白いですと言われたら、その小説が面白い小説なのだということはわかってしまうから。  だから彼女が両手で抱えていた本の一番手前にあった、僕も読んだことのある一冊をじっと見つめていたら、彼女が柔らかい声で独り言のように呟いて、僕はその声に釣られるように顔をあげた。 「あんなに嬉しそうにしてるの初めて見たかも」  そんなに、彼は嬉しそうに……。  うん、と大きく頷いて、彼女はカウンターの脇に置いてある小さな観葉植物をじっと見つめて肘をそのカウンターに置いた。 「手、早いけど、本当に嬉しそうにしてたから」  そ、そんなに手、早いんですか?  でも、昨日、キス、したくらいだし。  確かに早いのかもしれない。僕は交際ってしたことないから一般的な速さはわからないけれど、でも、確かに早い、かな。 「佑久さんは純情そうだから、ちゃんと適切なお付き合いしなさいよって言っておいたからね。もう近所の世話焼きおばさんみたいだけどさぁ」 「いえ、とんでもない」 「まぁ、実際おばさんだし」 「え?」  でもすごく、綺麗で。 「これ、じゃあ、借りてきます。いつもはいつでも読めるように買っちゃうんだけど。ここの図書館、オススメのラインナップがすごく素敵だったから」  わ。  そんなこと言ってもらえて嬉しいです。基本、万人に楽しんでいただけるようにはしてるんですけど、オススメを並べたのは僕なので。あ、でも借りるには。 「あ、あの、借りるには」  ここの近隣地域の住人でないと貸し出しカード作れなくて。まず、利用者登録申込書に必要事項をご記入の上、こちらの、ここの図書館カウンターへお出しいただかないといけなくて。あ、その際、住所と氏名が確認できるものをご提示いただいて、ですね。 「はい。これ、免許証で大丈夫? あと、申込書……これね?」  そう言って彼女はカウンターの端、観葉植物の隣に並べてある利用者登録申込書を一枚取り出した。そして、スラスラとボールペンでとても綺麗な文字を綴っていく。 「はい。お願いしまーす」 「ぁ……はい。それでは」  今日は、たくさん驚く日、なのかもしれない。 「ふふ、だから近所の世話焼きおばさん、なんだってば」  運転免許証を見れば、何歳か、わかってしまうわけで。  え、えぇ?  嘘、でしょう?  だって、そんな歳の方には到底。 「一応、美容系動画配信者なので」  ええぇ? 「貸し出し、三週間ね? また来るね」  ええぇ? 本当に? 本当に? この年生まれの? 「あと……」  はい。まだ、何か、僕は驚かされるのでしょうか。 「ありがとうね。あいつに、また、歌を歌わせてくれて」  身構えてた僕は、ただとても本当に嬉しそうに笑う彼女を見上げていた。  彼女はとても綺麗に微笑むと、貸し出しになった小説を胸に抱え、ひらりと長い指先をはためかせ、手を振って、図書館をあとにする。  彼女は、和磨くんに歌を再び歌わせるきっかけを作ったと、どんな魔法を使ったのだと僕に訊いたけれど。  スクリーンで見た女優さんの時よりもずっと自然体なのに、歳なんてわからないほど綺麗な彼女の方が、僕よりずっと、魔法使いだと思った。

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