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第28話 唇、ぷるるん

 ――手、早いよ。  そう言われてた、から。 「……」  つい、五分前、和磨くんとそれじゃあまた、と言って別れた。  ご飯を一緒に食べたんだ。デート、になるのかな。両想いなら。  うちまで送ると言ってもらったけれど、そうしたら、彼は電車に乗って、本来降りる駅を通り過ぎて、僕の住んでいる最寄駅で降りて、送って、戻って、また電車に乗っていくつも駅を戻って、歩いて帰らなければいけないわけで。それはきっと一時間くらい時間を要してしまうだろうから、全然大丈夫とお断りをした。  平気だよ、全然、送るよ、と言ってもらえたけれど。  もしも僕がか弱い女性ならそれもいいのかもしれないけど、男なので、本当に平気だからって。  だからかな。 「……」  また、キスすると。  ちょっと、思ったり……たけれど。  しなかった。  って、するようなタイミング、なかったし。  駅でするわけにはいかなかったでしょ? 電車の中ももちろんありえないわけで。彼は僕より手前の駅で電車を降りたんだんだから、キスするようなタイミングなかった。  だから、しないよ。  お店は駅から離れていて、ちょっと歩くけれど。静かな路地だったったけれど。  だから、少し、ほんの少し、身構えてたけど。  でも。  でもでも、住宅地の中で、屋外で……なんて、だよね。  うん。  僕が自宅に帰る途中、道端でしている人がいたら、やっぱり驚くし。  ここ、道端ですよ、屋外ですよ、公共の場ですよって、少なからず思うし。  だから。  しない、でしょ。  うん。 「……」  しないよ。  ――手、早いよ。  そう、若葉さんから言われて。 「……」  キス、するのかもって思ったけど。  ――じゃあ、マジで気をつけて。  しなかった。 「……」  食事に誘ってもらえて、こじんまりとした雰囲気もおしゃれなお店だった。ちょっとロマンチックというか、だから、デートっぽいなぁ、とか思って。  でも、デートなのだ。  付き合ってるのだから。  キス、するかも。  道端ではしないでしょとも。  色々考えていた。あっちこっち、頭の中で色々な考え事が走り回っていた。 「……」  キスするかもと身構えていた。  この瞬間かな。  違うか。  道端、かな。  違うよね。  キスを自然にできるかな。  身構えてると変だよね。  ずっと唇に意識がいっていた。  だから、今日は何もなかった、とキュッと結んでいた唇の緊張が解けた。解けて、溜め息を一つついた時、ほんの少しカサついていることに気がついた。  ――じゃあ、次、また、早番の時、飯一緒に。 「……」  次の早番は明後日だ。  次の約束は明後日。  リップ。  買ったりした方がいいかな。少し保湿とかした方がいいかな。  リップって、薬局に売ってるよね?  明日は、遅番だから、図書館に行く前がいいかもしれない。僕のマンションと駅までの道にはないから少し早めに家を出て、ちょっと遠回りをして薬局に行ってみよう。仕事終わった後じゃ、薬局は閉まってしまっているから。  うん。  その前に買ってこようって、カサカサしてるのを確かめるように自分の唇を指先でなぞって、その感触を確かめてみた。 「あ、あの、すみません。リップってどこに、あり、ますか」 「え? 何をお探しですか」 「あ、えっと、リップを」  僕の声、やっぱり聞き取りづらかったみたいで聞き返されてしまった。いくら探しても見つからないリップのありかを薬局で店員さんに尋ねてみたんだ。  全部をゆっくり満遍なく探したつもりなんだけど、それでも見つからなくて仕方なく。でないと図書館の仕事の時間になってしまうから。  店員さんは二回目で僕の探しているものを聞き取ってくれて、こちらです、と目が回りそうなほどたくさん商品が並んだ棚の中を迷うことなく進んでいく。  すごいな。  と思うけれど、きっと数えきれないほど本が並んでる中でも、人に「この本はどこにありますか?」と訊かれたら、真っ直ぐその本のある場所まで案内できる。そんな感じなんだろう。  そして、先ほど、確かにこの辺りも見たはずなのに、どうしてか見落としてしまった場所に、ずらりとリップが並んでいた。  ありがとうございます、と俯きがちに頭を下げて、驚くほどたくさん種類のあるリップの前で立ち尽くしている。  こんなに種類があるんだ。  ものすごい高いものから、安いものまで。色付きもあるんだ。  気をつけなくちゃ。  色付きのなんて僕がしてたら……でしょう?  安いのでいいかな。  カサカサしてるのだけ治ればいいもんね。  でも高い方が保湿力高いのかな。  明日、だもんね。保湿力高いのならすぐに効くよね。  そして一番高いリップを手に取って、レジへ。ずっと探してたから急がなくちゃとレジに向かう途中、お店に大きなポスターが貼られていた。  リップ、さっきこれを買ってしまったら大変だと思った、色付きの。春らしいピンク色のリップ。それをつけた女の子が魅力的に微笑んで、その微笑みから花が咲いたように、ポスター一面に花があって。 「……」  その唇はまるでゼリーみたいに艶やかで透明感があって瑞々しかった。  その唇をじっと見つめた。 「…………」  きっと、和磨くんが付き合ってきた――。 「! っと、いけないっ、図書館」  そのポスターの斜め上の時計、気がつけば、もうあと十分しかないよ。遅刻になってしまうと、僕は一番高い、けれど無色の普通のリップを手にレジへと走った。  初めて塗った。  リップ。  スースーする。  それから、普段は何もつけてなかったからか、塗っているという感触に違和感と、不思議な感じがして、落ち着かない。  みんな女の人はこういうの、リップとか口紅とか常につけてて、すごいな。気にならなくなるのかな。まだ変な感じがすごいする。慣れなのかな。  これで少しは。 「あ、椎奈くん、ちょっと手伝ってもらってもいい?」 「は、はいっ」  あのポスターみたいに艶やかになるのかな。  そう思いながら、スースーして仕方のない唇をキュッと結んだ。

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