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第33話 精一杯
とても嬉しかった。
あんなにたくさん雨が降っている中で、傘を隠れ蓑にしていたのに僕を見つけてくれたこと。
差し出した傘に、慌てながら僕のことも入れてくれたこと。
僕の手を傘ごと握ってくれた手がすごく力強かったこと。力強いのにちっとも痛くなかったこと。
とにかくとても嬉しかった。
きっと普段の、いつもの僕なら、嬉しかったと言わずにた。
でも、言いたいって思ったんだ。心から嬉しくてたまらなかったから、それをどうしても和磨くんに伝えないとって思った。
「ありがとう……和磨くん」
会話にしたら変だったかな。
急に何言い出すんだろうって思ったかな。
でもいいんだ。
僕は今、伝えたかったんだから。
「あ、あの、ジャージ、ちゃんと洗って返し、ます」
また借りてしまった。
まだマフラーも返してないのに。今度はジャージを借りてしまった。借りてばかり、和磨くんにはいつもしてもらってばかりだ。
「今日、まだ用事」
あるんだよね。忙しいって言っていた。
「大学の部外者なのに、ここに、あの、迷惑」
見つかったら叱られてしまうでしょ? 雨宿りさせてもらったけれど、傘なら二本あるから大丈夫。
「それと」
「待ってて」
ほら、きっと忙しい。和磨くんがポケットからスマホを取り出した。きっとこの後の予定のことなんでしょう?
邪魔になりたくはないんだ。だから、僕はお辞儀をして帰ろうと思った。今日はそもそも会える日ではなかったのだから。今朝、本をくれた。夜ではなく、朝、和磨くんが大学に行く前、そして僕が図書館に行く頃。それはつまり夜は多忙だから朝しか時間がなかったっていうことでしょう?
それから、ここ、ロッカーって。
手を握ったまま、だよ。
まるで離したら、僕が逃げ出してしまうと思っているみたいに、しっかり手を繋いだままだ。
「あ、本は、大丈夫、濡れてない」
そうだ。せっかく買ってもらった本、濡れてしまったら大変だって思ったんだった。もしかしたらそのこと和磨くんに伝えた方がいいかもしれない。大事にあの時渡されたビニール袋に入れたまま自宅まで持って帰るから安心してくださいって。
「ビニール袋に」
「ちょっとだけ待ってて」
そう言って、和磨くんがまた僕の手をぎゅっと握ってくれる。僕は、きっと彼の手が弱点なんだと思う。まるで子猫が親猫に首根っこを口に咥えられた時みたいに、彼に手をぎゅっと握られてると、動けなくなってしまう。だから、僕はフリーズして、ぎゅっと固まったまま、スマホを耳にあてて誰かを呼び出している彼をじっと見つめた。
「……あ、もしもし?」
やっと電話が繋がった。
「ごめん。今日なんだけどさ……また、俺なしで決めてもらってもいい?」
え?
今日の予定?
「そう……用事が入っちゃって。……うん。進めていいから……決めてもらっていいよ」
そんな、ダメでしょう? 何か大事なことだったんじゃないの? 用事、進めてって、決めてって。
「サンキュー。そんじゃあ……また、次ん時」
電話はそこで終わってしまった。
「あ、あのっ」
大事な用事のようだった。ううん。大事な用事でなくても、誰かとの約束をキャンセルさせてしまった。僕はそんな邪魔がしたかったわけじゃなくて、ただ傘を。和磨くんが濡れてしまったら大変だから傘を貸したかっただけなんだ。何かを押しのけて会うなんてことは考えてなかったんだ。
「平気。今日は俺、そんな重要じゃないから」
「でもっ」
「平気」
でも、やっぱり。
「それより」
申し訳ないことをしてしまった。
「ジャージ洗って返さなくていいよ」
そんなわけにはいかない。
「うちで一緒に洗うから」
「……」
「今日の予定は変更」
「……」
「やっぱ、佑久さんといる」
「……」
「どうしようかなって思ってたんだ。今日はマジで俺、いるだけだったし。いなくてもいいレベルだったから。それなら佑久さんに会いたいって思ってたし。けど、佑久さんに……って、すでに、頭の中、佑久さんでいっぱいだったからさ」
それはっ、僕も、です。
僕の方こそ和磨くんのことをたくさん考えていて。何しているんだろうとか、忙しそうだけど大丈夫かな、とか。ずっとたくさん考えながら、オオカミサンの歌をずっと聴いていた。
「だから、さっき、大学の門のとこで見つけた時とか、ヤバかった」
「……」
「もう、マジで……」
ごめん、なさい。
「何してんの……」
そう、小さく溜め息混じりに呟いた声が。
「……ぁ、の、えっと」
僕の肩に乗っけられた和磨くんの頭と一緒に鼓膜をくすぐる。僕より背の高い彼が背中を丸めて、僕の肩に頭を乗っけると、すごくすごく、彼に包まれている感じがして、気持ちが落ち着かない。そわそわしてしまって、指先まで戸惑いが伝わって、手、繋いでいない方の手が、自然と和磨くんのジャージの裾をぎゅっと握っている。
「……ぁ」
ふわりと肩が軽くなった。と、同時、今度は視界が暗くなった。
和磨くんが目を逸らすこともできないほど近くに顔を寄せているから。両手をポケットに入れた彼の額が僕の額に触れている。きっとどんな小さな声でも聞こえるほど近く。
「今日、夜、用事ある?」
「あ……と、特に、は……あ、でも」
「?」
頂いた本。
「本、読もうと」
それを蔑ろにはしていないって言いたかった。和磨くんから本を頂けたのは本当に本当に嬉しかったから、それを読もうと思っていたよと伝えたかった。
「なら、うちでも読めるよね」
「……え、ぁ」
笑い声混じりに和磨くんがそんなことを呟いた。
うちって、多分、僕の。
「佑久さんちじゃなくて、俺んとこ」
「……」
「俺んちでも読める」
「……」
「早く帰ろう。ジャージは着てても、マジで風邪引かせそう」
「そんな」
ほら。
「帰ろ。佑久さん」
また。
「……は、ぃ」
彼に手をぎゅっと握られると、僕はまた、子猫が親猫に運んでもらう時みたいにじっと、ぎゅっと、身体が固まってしまう。
そして、鼓動が一瞬で、アップテンポな歌のように早くなって、指先まで熱くなって、いつも以上に喋り下手になってしまうから、ただ、コクンと頷くくらいが精一杯だ。
「……はい」
このくらいが精一杯だ。
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