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第34話 愛愛傘
和磨くんの最寄駅は知っていた。
でも、そこで僕が降りたことはなくて。
「次で降りるから」
今日が、初めて。
「ぅ……ん」
知ってるよ。
毎日図書館に向かいながら、この駅に電車が到着する度にホームを見てた。いるわけないし、もしも同じ電車に和磨くんが乗っていたとしても、遭遇するなんてこと、小説じゃないのだから、そうあるわけないって思いながら。
手は握られていないけれど、でも、僕はずっと子猫みたいにキュッと身体を縮こまらせてる。嫌とか、拒否とか、そういうのじゃない。ドキドキしていて、縮こまっていないと心臓が破裂しそうなんだ。彼の、僕には少し大きいサイズのジャージにも、普段もっとたくさん話してくれるはずの彼の口元がずっと固結びなままなのも。夕方っていう、時間帯、電車の中、座席に空きはなく、出入り口のところに立って窓の外を眺めている和磨くんの横顔にも。
「!」
わ。
「寒くない?」
「ぅ、ん」
目が。
「降りるよ」
合って、しまった。
僕は頷くのが精一杯。
電車が和磨くんの降りる駅へと到着した。空気の抜ける音と同時、開いた扉の外へと降りていくと、ゾロゾロと幾人もの人が一緒に降りて、階段を目掛けて歩いてくる。僕らはちょうどその階段付近に降り立って、そから階段を一番乗りで上がっていく。
ここが和磨くんの……。
「駅から少し歩くんだ」
「あ、うん」
そうなんだ。
「あは、天気予報大外れ」
ちょっとだけ僕の手前を歩いていた和磨くんが突然笑って、僕は顔を上げた。改札を出て、屋根のある駅舎の出入り口から見えた外は雨が降っていた。そこには僕らと同じように天気予報を信じた人たちなんだろう。傘を持ってこなかった人たちを迎えに来ている車がずらりと並んでいる。その車に、大急ぎでそれぞれが乗り込んで、車が発車すると、また別の車が滑り込んで。
天気予報では雨のことなんて言っていたなかったのに。
ただの春の夕立かと思ったら、そんなことはなく、突然降り出した雨はやむことなく、そのまま、しとしとと長く降り続いていた。
「傘」
「……ぇ?」
僕は持ってるよ。ほら、折りたたみを。
「一緒に傘」
でも。
「歩いて五分くらいだからさ」
「ぁ……うん」
それなら、折り畳みの傘を広げるほどでもないということ、なのかな。
和磨くんが差し出してくれた傘の左側にそっと入り込むと、小さな雨粒が傘を太鼓の代わりにして賑やかな音を立てた。
「佑久さん、濡れてない?」
「あ、ジャージがちょっと危ない、かな」
大事な和磨くんのジャージが濡れてしまわないよう肩をすくめて、腕を自分の前へと向けた。
「俺のジャージはいいよ。全然濡らして。佑久さんが風邪引かなければ。うち、もうすぐ。ここの通り真っ直ぐ行ったらそうだから」
雨で濡れた石畳の歩道を進んでいく。駅は、僕が住んでいるところよりもずっと栄えていた。駅ビルもとても大きくて、改札手前にあるパン屋さんからはバターのいい香りがしてた。けれど、その駅前のエリアを通り過ぎると、急に静かになって、住宅地の雰囲気だ。
「あそこ」
「……」
ぽわりと地面から空へ向けて灯りが灯っている。その明かりに、植物には詳しくないからわからないけれど木が照らされている。そんなに大きくないマンション。でも外壁が真っ黒で、真新しくてちょっとオシャレで高そうだった。
「ここ」
そう言って和磨くんが扉のところにある機械にカードをぴたりとくっつけると鍵の開く音がした。
「うち、三階」
コクンと頷いて、階段を三階まで登っていく。途中、階段の踊り場に来ると、外がよく見えた。またお迎えの車なのかな、急足で走っていく車のライトが照らして、濡れたアスファルトに雨雫が打ち付けられているのが見えた。こうして見るとけっこう降ってる。
「どうぞ」
そんなことを思いながら階段を登っていたら、いつの間にか、もう和磨くんの部屋まで辿り着いていた。
「暖房入れるから、あと、風呂か」
「あ、あの」
「ジャージはいいよ。今、いっぺんに洗うから。寒くない?」
「平気」
「風邪、引かないようにしないと」
「……」
「? 佑久さん?」
和磨くんは優しい。すごく。
きっと、付き合ってきた女の子にもこうやって優しくしてあげるんだろうなって。
映画を見に行った時もそうだった。僕が冬用のコートじゃ変だからとカーディガンだけで出かけた、まだ今よりも肌寒かった時、マフラーを貸してくれた、寒いからと。今みたいに、風邪引かないようにしないとって優しく言ってくれた。
優しくしてもらえるの、すごく嬉しかった。
マフラーもすごく嬉しかった。
でも、なんだか、今は少し申し訳ないような気がして。
「佑久さん?」
きっと、和磨くんはいつも付き合ってきた彼女にこうして優しく接してあげるんだ、と、思う。
でも、僕は案外丈夫で、風邪も一年に一度、引くか引かないかくらい。病院だって行かなくてよくて、一晩寝たらすっかり元気になってしまうくらい。
丈夫だし。
そんなに、なんというか。
女の子じゃないから。
僕は、男だから。
和磨くんが今まで大事に、優しく接して上げた女の子とは違うから。
さっき、和磨くんが傘、入れてもらっていた女の子みたいに可愛いくないし、運動なんて得意じゃないから身体つきは細いかもしれないけど、女の子みたいに華奢なわけじゃないでしょ? あの女の子となら心配いらない相合傘も、僕とだと、少しはみだしてしまうでしょ。
ほら、和磨くんの肩、濡れてる。
きっと僕に気を使ってくれたんだ。
だから――。
「佑久さん」
申し訳ないって思った。
ずっとしがみつくように、貸してもらった和磨くんのジャージの袖をぎゅっと握っていた。その握っていた自分の手を離して引っ込めようと、した。
「ぶっちゃけ」
申し訳ないです。これは洗ってちゃんと返します。そうとにかく謝りたくて仕方ない気持ち。
「すげぇダサいこと、言っていい?」
そんな気持ちが胸いっぱいに染み渡って行こうとしたところで、ぎゅっと和磨くんが手を握った。
僕の、手を。
「やっぱ無理って言われそうで、逃げられそうで」
「……」
「今、」
手をぎゅっと握ってくれた、和磨くんの手がびっくりするほど冷たくて。
「佑久、さん」
咄嗟に僕はぎゅっとその手を握り返した。
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