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第41話 春を歌う

 深く、深呼吸する和磨くんの頭上にとても綺麗な薄青紫の空が広がっている。  春の朝焼け空の色。  きっと、昨日の夕方、お天気予報を大外れにした雨雲が小さな雲を全部連れていってくれたんだ。雲のない空。多分今日こそは快晴。でも、まだ日は上り始めてばかりで太陽は顔を出してない。  ただ夜空と青空を足した淡い青紫色の空の端に太陽の陽の色が見える。まるで大きなハンカチに染み込んでいったみたいに端にだけ明るい陽の色が広がっている。  綺麗な空の下、淡い淡いピンク色のスーツを纏った演奏者が四人並んでいた。  四重奏。  僕は楽器も詳しくないけれど。  けれど。  綺麗なフォルムの楽器は見ているだけで何かを期待させてくれる。  そして四人の間、真ん中に和磨くんがいる。  もう胸が躍ってる。  期待が込み上げてくる。だって、彼らの後ろにはそれはそれは見事な桜が咲き誇ってるんだ。 「……」  四人と四つの楽器。  一人の歌い手と、一つの歌声。  その後ろに、大きな大きな桜の樹。  もう桜はこの辺りじゃほとんど散ってしまったのに。今、満開のところがあるなんて。  まだ散らず、咲き誇る桜。  満開に咲くその淡い色にも、この青紫の空の色が染み込んでいるみたいに、普段よりも綺麗なピンク色。 「……」  彼が小さく深呼吸をした。  桜の花びらが春の風に、ひらりと舞って――。  彼の声が空高く、青紫の空に響く。  その声に揺り起こされたように、四つの楽器が演奏を奏で始めた。  なんて声なのだろう。  優しくて切なくて、早朝、まだ空だって太陽だって、きっと桜の木だって、のんびり静かな一瞬を堪能してる時間。  空気すら震える気がした。  和磨くんの歌声が桜の花びらと一緒に舞い上がっていく。  なんて切なくなる声なのだろう。  なんて優しい気持ちになれる歌なのだろう。  なんて、素敵なんだろう。 「ハル」の歌はこんなに恋しい人に会いたくなる歌なんだと、彼の声で実感する。  マイクを持っていない両手はリズムに合わせて、歌声に合わせて。自由に彼の歌を表現してく。  僕は、彼の歌に身体丸ごと没頭するように聞き入っていた。  この歌を奏でる音符ひとつひとつ、一瞬一瞬を目に焼き付けて、耳を澄まして。彼の呼吸だって歌の欠片のようなんだ。  静かで穏やかな朝、世界中が彼の歌声に息をするのも忘れている気がした。  瞬きをするのももったいない。  息をするのも忘れてしまう。 「…………」  僕は夢中になって彼の歌を聴いていた。  この数分間はまるで奇跡のようだった。  僕はその奇跡の時間にここにいられた。 「……佑久さんの目の前で歌いたかったんだ」  返事、できないよ。  息が震えてるんだ。 「貴方に俺の歌をそこで聴いてて欲しかったんだ」  感動って、するとなんにも言えなくなるなんて、知らなかった。 「ありがとう」  歌い終えた和磨くんが僕の方へと歩いてくる。歌の間は春の風も、和磨くんの歌声に聴き入っていたのだろう。そして今、歌が終わって、拍手でもするように風が桜の花びらを舞い上がらせた。 「俺に歌をまた歌わせてくれて」 「っ」  和磨くんが僕をぎゅっと抱き締めた。  彼の声がすぐそこ、耳元で聴こえる。  歌い終わったばかりの彼の声は少し歌ってる時みたいに掠れて、けれど歌っている時よりも低くて、特別。 「きっと佑久さんがいなかったら、俺、あのまま歌うのやめてたよ」 「っ」 「貴方が一生懸命俺の歌が好きって言ってくれたの本当に嬉しかったんだ」  だって、本当に好きだから。  ―― んな、なに? 俺の歌、聴いてんの?  和磨くんの歌を聴いていると言ったらとても驚いていた。目を丸くして。  ―― うん。だって、聴いてみてって。  そう答えたら、照れくさそうにもしていた。  僕は魅力的で毎日聴いていますって言ったんだ。  こんなことがあるんだと本当に驚いたから。イヤホン買って、図書館の行きも帰りも、それから自分の部屋でも聴いていますと話した。  あの歌はこれがすごくよかった、この歌はこんなところが好きでリピート再生ずっとしていた。あの時の歌は大のお気に入りで、なんてたくさん伝えた。  一生懸命に和磨くんの歌の好きなところを伝えた。まるで最高に面白かった本を読み終わった直後、興奮冷めやらぬ読後の余韻を全部全部伝えたくてたまらないみたいに。気持ちをぎゅうぎゅうとノートに書いて詰め込んでいく本の虫みたいに。  君の歌にワクワクしている。  ドキドキしている。  毎日、毎日、聴いているって。  君の歌のおかげで毎日が楽しいんだ。歩くリズムがアップテンポに変わった。気持ちが踊るんだ。君の声で、歌、あの曲もこの曲も聴いていたいって、伝えた。  和磨くんの歌が。 「大好き、だよ」  和磨くんの背中に手を回して、ぎゅっとしがみつきながら、震えてる泣き声でそう告げた。 「うん」  君の表情は、君に抱き締められていて、僕が抱きついてしまっていて、見えないけれど、声でわかるよ。  きっと微笑んでるでしょう?  嬉しそうに。幸せそうに。  わかっちゃうんだ。僕は君の歌を呆れるほど何回も何百回も聴いているから。 「佑久さん……」  腕の力が緩んで、君が僕を見つめる。  額をくっつけて、そっと僕の名前を呼んで。 「大好きだ」  そう伝えてくれる君の銀色の髪に。 「佑久さんがいるから、すっげぇ歌、楽しいよ」  桜の花びらが乗っていた。  そんな春、桜があちこちで満開を通り過ぎて、桜の木を見上げるとその向こうにある青空がよく見えるようになった日、オオカミサンが半年ぶりに動画をあげた。  その日の夜、オオカミサンのフォロワーは百六十万人を超えた。

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