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第43話 過ぎてしまえば、楽しかった事

 ねぇ、あの人、っぽくない?  えぇ? マジ?  だって、ほら、超似てる。  そんな会話が大学から僕の部屋に向かう途中の電車の中で聞こえてきた。  今日は僕の部屋に和磨くんが来ることになった。全然素敵じゃないし、和磨くんの住んでいるマンションみたいなところじゃない。ちょっと古くて、駅からも少し歩くし。  本屋デートしてたら、どのオススメ小説もすでに僕が持ってて、それなら本屋じゃなくて、僕の部屋に行けばいいじゃんって。  ――本しかないよ。  ――それ言ったら、俺の部屋、なんもないよ。  なんて言ってた。  そんなことないでしょ。和磨くんは、もうそれだけですごいんだから。  才能、を持ってる。  帽子、被ってるけど、マスクしてないからわかる人にはわかってしまうと思う。特に女子高校生とかなら、尚更。  今、電車の中で「オオカミサン」じゃない? と話してる二人も女子高校生。  そのヒソヒソ話が和磨くん本人に聞こえてきたのかどうか。和磨くんは静かに電車の出入り口付近のガラス窓から外の景色を眺めてる。そんな彼の肩越し、席に座っていた女子高校生がこっちをチラチラ見ていて。 「あ……」 「!」  は、はい。 「ね、佑久さん、途中、薬局ある? あるなら、寄っていい?」  和磨くんが他の乗客に迷惑にならないよう、小さな声でそんなことを言った。 「あ、うん」  一躍有名人だ。  大学でも知らない人に話しかけられることが多くなったって、言ってたっけ。  落ち着かないかな。  少し、横顔が、なんというか。 「……落ち着かないんだけど」 「!」  ごめんなさい。そうだよね。大学でも、駅でもあんなふうに知らない人に見られてたら。 「佑久さんに見つめられて」 「!」 「っぷ」  そっち? って、僕が驚くと、和磨くんが笑って、また少しだけ帽子を深く被った。  駅を降りると、少し陽が傾いて、いくらか涼しくなっていた。けれどまだ空は明るくて、真冬のこの時間との違いに季節が変わったんだなぁって実感する。 「だって、めちゃくちゃ真っ直ぐ見つめられたら落ち着かないでしょ」 「そ、それは、そうかもしれないけど」 「好きな子に見つめられてさ」 「!」  まだ少し、、その自覚はなくて、自分がその和磨くんの好きな子ということに驚いてしまう。 「あ、薬局、そこの角曲がるんだ」 「おけー」  僕が住んでいるあたりはかなり静かで、駅ビルもなければ素敵なお店が並んでいる駅沿いの道もなくて。タクシーと周遊バスが通れるだけのロータリーがあるくらい。そこを通ってしまえば、あとはとても静かな従宅地だけ。栄えてないんだ。建っている家屋もどことなく古い、昔からある一軒家もたくさんある。スーパーマーケットは少し駅から離れてて、今、向かっている薬局に行くのは駅から僕の住んでいるマンションの道をずいぶんと離れてる。不便だけれど、特に図書館と自宅の行き来をするだけなら特に不便だと感じない。 「あ、僕も、ちょっと買い物」  泊まる、かな。明日、僕は土曜日で仕事があるけど、和磨くんは大学、ないよね。そしたら、泊まる……かもしれない、よね。  それなら歯ブラシとか、いる、かな。家着は……貸せないかもしれない。サイズ、胴回りは大差なくても手足の長さが……ちょっと、僕のじゃ足りない、かも。  でも薬局にルームウエアのセットなんて売ってるわけないし。  あ……肌着ならあるけど、これ本当の肌着だ。これ着てたら……流石に、ヘンテコな組み合わせの餃子だって食べちゃう、なんでも受け入れるおおらかそうな和磨くんでも拒否するかもしれない。おじいちゃんみたいだ。なんとなく。白は特に。せめて、黒なら――。 「……ぷるるん」 「へ?」  空耳、かと思った。  それは、あのポスター。 「佑久さん、これ見たんだ」 「! は、わっ、わぁっ」  和磨くんが見上げているその視線の先には色付きリップを持ちながら可愛い女性タレントさんがピンク色の、まるでゼリーのような唇で微笑んでいるポスターがあった。  ――僕の唇がガサガサだったから、女の子の唇って、ピンク色でゼリーみたいで思わず食べたくなるくらいで、ぷるるんってしてる、のに、僕は全然で。だから、リップとかつけてみた、けど、しないから、やっぱり。  あの時の僕の悩み事。  今、和磨くんが呟いたように、僕はそのポスターの前でとてもとても色々と考えてたんだ。  君がキスをもう一度したくなる唇ってどんなものだろうって。 「あの時、すっげぇ、ツボだったんだよね。めっちゃ可愛くて。どっからその、ぷるるん、って単語が出てきたんだろうって思ってた。この可愛いくらいに真面目な人からどうして出てきたんだろうって」 「は、わっ」 「小説とかに書いてあったのかなぁって、ずっと引っかかってたんだけど」 「は、ぎゃ、あ」 「いや、ふつーに全然キスしたいの我慢してただけだから」 「あ、ひゃあ」  もう、どこかに穴でも掘って埋まってしまいたい。もしくは小さくなって、和磨くんから隠れたい。  あの時は本当にどうしようとたくさん悩んだんだ。あの一度だけで、それ以来、手の早いはずの和磨くんと進んでいかないことに。本当に、ものすごく悩んでたんだ。 「っぷは」 「!」  すごく悩んでたけれど。 「そ、そんなに笑わなくても」 「だって」  でも、君にたくさんキスをしてもらえるようになった今では、懐かしいなぁなんて。 「つか、佑久さんも笑ってんじゃん」  不思議なことに、そんなふうに思ってしまえるんだ。

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