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第54話 お洒落の極意
ファッションも髪型も、容姿にはあまり頓着しなかったんだ。気にしなかった。
若葉さんも、若葉さんのお店の人も、お客さんも、みんなすごく綺麗で、かっこよくて、たくさん気をつかっている。だから僕はこういう場所は少し恥ずかしさが胸にあって、居心地、あまり良くなかったんだ。
なんだか、すみません、と謝りたい感じがしてしまったんだ。
それでも来たのは、和磨くんに少しでも――。
「どうぞー、入って」
「ぁ……」
魅力的だって思われたくて。
「あの……」
案内されたのは二階の個室だった。美容院で個室って、あるんだ。なんだか部屋みたいだ。大きな窓ガラスからの日差しはレースカーテンで程よく遮られてる。小さな本棚に大きな観葉植物、本当に部屋みたいでくつろげる。それからほんのりとだけどいい匂いがする。
お洒落でシンプルな部屋みたいだ。
けれどここが美容院なんだってわかるのは、ソファの前に大きな鏡が置いてあるから。
「ここは……」
「うちのお店、芸能人の方も結構使ってくださるの。で、芸能人の方は下のフロアだと、他のお客様がいる時間はリラックスできないでしょ? だから、ここでカットとかさせてもらうの」
そう、なんだ。あ、でも、この白い壁のところ。
「あ、あと、ここで若葉さんが撮影してるの、見ました」
「ええー! 見てくれたの? ありがと」
「あ、全部、じゃない、です」
「全然、全然。一つでも佑久くんに見てもらえて嬉しいよー。あ、シャンプーだっけ。待っててね。シャンプーしてみる? 仕上がりの希望とかある? 髪質によってもシャンプー使い分けてるから」
「え、あ、あの、いえっ、僕、芸能人じゃないのに。ここ。それに、あの、若葉さんお仕事中で」
「平気だよ。今日はここ使う予定ないし。それに今は休憩中だから、仕事入ってないよー」
それなら尚更。
「休憩は気にしないで。休んでるのより、こういうことしてる方が好きなの。ここ。空いてる時なら、和磨もここでカラーリングしたりしてるよ。お客様でオオカミサン知ってる人もけっこういるから」
ここに、和磨くんも来るんだ。
「そっちの奥のとこがシャンプー台」
「わ」
「リラックスしてね。イス、倒すね」
奥に案内されると、本当によく美容院にあるシャンプー台とリクライニングの椅子があった。
そこにおずおずと座って、リラックスとは程遠いカチコチになりながら仰向けで寝ていると、温かいタオルが目元に乗っかった。
「わぁ」
思わず声が出ちゃうくらいに気持ちいい。あと、とても爽やかないい香りがする。
「本読むから目疲れるでしょ」
「あ、はい」
お湯、温かい。
「お湯、熱くないですか?」
「ぁ、大丈夫、です」
シャンプーも、気持ちいい。
「普段はコンタクト?」
「あ、いえ」
「へぇ、すごいね。目、良いんだ」
「あ、はい」
「最近、オススメある?」
「ぁ、この前、和磨くんに、本いただいて」
「へぇ、和磨から? 洗い足りないところないですか?」
「大丈夫、です」
泡がふわふわしている気がした。自分で洗っていないからわからないけれど、髪というか頭が丸ごとふわふわの泡で包まれてるような感じ。だから洗い足りないところなんて一つもなくて、むしろ充分なほど。
「連休中は会うの?」
「あ、はい。水族館に」
「へぇ、いいなぁ」
「ぁ、はい。楽しみ、です」
「ふふ」
「あ、それで、少しくらい、お洒落した方がいい、かなって。僕、疎くて。だから今日、買い物にって思ったんです。でも、なんだかお洒落すぎて僕にはちょっと……」
「うん」
こういう時、もう少し弾んだ会話ができればいいのに。僕はやっぱりお喋りが下手で。
若葉さんが会話をいくつも優しく投げかけてくれるのを、退屈で平凡な返事で返すことくらいしかできなかった。
「はい。シャンプーおしまいね」
「あ、すみません」
「髪、乾かすねー」
「お、願い、します」
起き上がると、また身体がカチコチになってしまう。きっと、僕みたいにお洒落に疎く、髪の毛の手入れだってたいしてしていない、市販のシャンプーでただ洗ってるだけの髪じゃ、頭じゃ、洗練されたお仕事をしている若葉さんには笑われてしまう。こんなに雑じゃダメでしょう? って。
「ちょっとだけ、目を瞑っててもらってもいい?」
「はい……」
言われて、目をぎゅっと瞑った。
「佑久くんは髪ダメージないから、水色のじゃなくて大丈夫だよ。柔らかいから、しっとりしてるのより、ふわふわに仕上がる方のがいいかな。黄色のラベルのなんだけど」
でもそれだと、和磨くんと一緒に。
「あ、和磨もこれ、前は使ってたよ。髪が少し長めだった時に」
「あ! 知ってます」
「あは、動画で見た? ドラマの主題歌歌って、すごい反響あったんだよ」
「そうなんですか? 僕、ドラマ見ない、から」
「あの時は黄色のラベルのだったんだよ。もちろんどっちもダメージケアのだから大丈夫」
そう、なんだ。よかった。
「はい。完成」
「…………!」
目を開けると、なんだか、違っている自分がいた。なんだろう。何も違わないのに。服は同じだし、髪を切ってもらったわけでもない。ただ頭を洗ってもらっただけ。
「佑久くんは素がすごくキレイだから、このままで充分魅力的。服、似合ってるよ? 真面目で誠実って感じ」
真面目で、誠実。つまらなくて、ダサい、じゃなくて?
「肌もキレイだし。髪をね、少しだけ中に空気を入れるように乾かしてあげて? ここに指通して、ふわふわーって」
「……」
「それから前髪は左右どっちにも流しながら、同じようにふわふわーって」
「……」
「カットしてないのに印象違うでしょ?」
そう、なんです。切ってないのに、切ったみたいに重たさが消えてる。
「佑久くんはそのままで魅力的だよ」
「……」
「私ね。お洒落って、自分の自己満足のためにすると思うの。綺麗の基準も、可愛いの基準も、自分が満足するかどうかだと思うの。私、そばかすすごいんだけど」
あ、知ってる。映画ではそれメイクなのかな。気が付かなかったけれど。初めて見た時、そばかすがあって、なんだか表情がもっと柔らかくて、僕は、映画の中の若葉さんよりも素敵だと思ったんだ。
「綺麗だなぁ、可愛いなぁ、かっこいいなぁって自分が思えればいいの。他人なんて関係ない。自分の着たい服を着て、自分のしたいメイクしていいの。それが若い頃のメイクのままで、それでも自分が気に入ってて、自分可愛いって思えれば全然、オールオッケー」
「……」
「今、鏡の中の佑久くん、素敵」
はい。ちょっとだけ、なんだか。
「今のままで充分」
「……」
「そのままの佑久くんを、和磨はすごい好きになったんだよ。だから、お洒落に気を使うなら、そうだなぁ」
そこで若葉さんが鏡越しに僕をじっと見つめた。
「クローゼットの中で、いっちばんお気に入りの服、着てけばいいよ」
「お気に入り……」
「そ、一式なんて買わなくて大丈夫」
「……」
「基準はね。ちょっと着ると、気持ちが上がる服、だから買わなくたって大丈夫」
「……」
「ね?」
このままで。
「あの」
「?」
「ありがとう、ございます」
帰りの電車の中、揺れる度に、新しいシャンプーの良い香りが鼻先を掠めた。
「……」
服は買わなかった。代わりに、和磨くんも使えるシャンプーを買った。
「!」
あ。
―― あの時は黄色のラベルのだったんだよ。もちろんどっちもダメージケアのだから大丈夫。
そういえば、若葉さん、僕の髪質に合わせてくれたシャンプー、あれ、和磨くんも使う前提で紹介してくれてた。和磨くんが使う前提ってことは、和磨くんがこれを僕の部屋で使うってことで。泊まっていくってことで。
その前提で話してたって今、気がついて、僕はシャンプーを抱えながら頬が熱くなって仕方なかった。ぎゅって、和磨くんが僕の部屋に外泊すると知られたことの気恥ずかしさをシャンプーごと抱き抱えると。
――ガタンゴトン。
また電車が揺れた拍子に、爽やかで素敵な香りが僕の髪からふわりと香った気がした。
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