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第58話 丸ごとな笑顔
カラオケに来たことなかったから、だから、ほら、その、つまり、そのアイデアがなかったからで。
「え、そしたらラブホ行ったこと」
「な、な、ないです! ないに決まってます!」
「っぷは」
本当に二人っきり、誰の目も気にならない完全個室だから、とても大きな声で即答で否定したら、和磨くんが大きな口を開けて笑った。
「佑久さん、真っ赤」
今日、初めて見た、君の丸ごとな笑顔。
僕の好きな君の笑った顔。
「大学とか高校の時来なかった?」
ううん。ないよ。放課後は図書館にいたから。もしくは自分の部屋。そう思うと、僕の行動範囲はとても狭い。今まで図書館にしかいなかったといえるくらい。学生の時も、社会人になって働くようになっても、僕の居場所は図書館。
すごいことだと、思うんだ。
こんなに広がったなんて。
図書館を飛び出して、映画館へ、水族館へ、あっちこっちって、君と手を繋いで僕の世界がゆっくり広がっていく。
「飲み物取りに行こ」
「う、うん」
ドリンクはフリーなんだそうです。
「あ、アイスも食べる? 佑久さん」
アイスも好きに食べていいんだそうです。
「あ、う、うんっ」
「できる?」
「うん。うわっ」
「ちょっ」
掌よりも少し大きいサイズのお皿にアイス、ソフトクリームをくるくると乗せていくのだけれど、僕が思っていたアイスの出てくるスピードよりもずっと速くて。
「わ、ありがと」
びっくりした。お皿からソフトクリームが落ちて行ってしまうかと思った。
「本当にカラオケ、来た事ないんだ」
「うん」
「じゃあ、佑久さんの初ゲットじゃん。俺。どーぞ、中、先に入って」
「ごめっ、ありがとう」
片手にアイス、もう片方の手にはドリンクを持って。和麿くんは器用だから、まるでカフェの店員さんみたいにコップとアイスを乗せたお皿を片手で持っていて。両手がふさがってしまっている僕の代わりに、今日、カラオケにと借りた部屋の扉を開けてくれた。
「カラオケはけっこう久しぶりなんだよ。あんのかな。俺が歌えそうな歌」
「あの……」
「?」
「全部、初めてだよ」
「……」
「大袈裟じゃなくて」
本当に、大袈裟に言ってるわけじゃなくて、本当に、本当に初めてなんだ。カラオケも、水族館も、デートも、キスも。もちろん、それ以上の行為も。
好き、だと思うのも。
好意、じゃなくて、好きっていう気持ちを言葉にして伝えたのも、伝えてもらえたのも。ううん。
それよりもずっと拙いところから、好きを言葉にして伝えたいと思ったのすら。
「全部、初めて」
びっくり、するよね。
君よりも五つも多く誕生日を迎えてるはずなのに。五回分、季節を多く味わっているはずなのに。君と出会ってから、僕は春を初めて感じた気がする。きっと夏も秋も冬だって、初めて季節を感じると思う。
「ありがと……あの、カラオケ、も、アイスも」
でも、今、君とだからこんなにたくさんの事が出来ているんだ。
「ありがと……」
和磨くんは、じっと僕を見つめてから、視線を、まるで風に揺れながらどこかに飛んでいく若草色の軽やかな葉っぱみたいに、ふわりと横へ向けた。それから、せっかく、やっと見れた丸ごとの表現、マスクで一日隠れてしまっていた口元を掌で覆い隠くしてしまう。
「そんな、可愛いく笑ってるけどさ」
「?」
「ここ、カラオケ」
「?」
「佑久さんも歌うから。歌、聴きたい」
「………………ええええええっ!」
「はい。マイク」
そう、なの?
でも、そう、だよね。
うん。そっか。
「が、頑張ります」
「……」
「下手、だけど」
手渡されたマイクをぎゅっと胸のところで握り締めた。
そうだよね。
カラオケってみんなで歌うんだよね。そんなのできないよって思ってた。幸いにも僕の職場はそういうことが苦手な人ばかりだったから、宴会とかはあったけど、カラオケは誰も行きたがらなくて。それよりも本の話を語り合いたいって人が多かったから。
だから歌ったことはないし。
人前では歌えないけど。
君、だもの。
「ぼ、僕、歌える歌、あるんだ」
オオカミサンの歌でこれ、すごく好きだなぁって思ったのが一つあって。あ、いや、たくさん、というかどれも大好きです。毎日、聞いてます。
「あの、和磨くんが、オオカミサン、が、歌ってて、声がすごく素敵で僕もこんなふうに歌えたら気持ちいいだろうなぁって思ってて。全然、歌えないと思うけど。あ、その歌、ドラマの主題歌なんだって言ってた。オオカミサンがあの、髪の毛を全部あげて歌ってて。顔、たくさん見れて、かっこよかった」
「あー……そん時、若葉にスタイリングしてもらったやつだ。ドラマの主人公にちょっと髪型似せて」
「あ! うん! それ、です。かっこよかった
歌も、切なくて好きだった。大好きで、大事で、恋しくて、と繰り返し囁く歌詞。君に会いたくなると歌うリズム。そのフレーズがすごく素敵で。
聞いていると胸がぎゅっとなるんだ。
「それ、なら、歌える……かも」
なので、頑張ってみます。でも、本当に、歌ったのなんて、学生の頃の音楽の授業以来だから、全然ダメだよ。声の出し方すらわからないからねって。急いで付け足した。だって聞いてくれるのは、僕が最高に好きな歌を歌う人なのだから。もしかしたら聞くに耐えないかもしれない。鼓膜破けちゃうかもしれない。でも――。
「頑張ります」
「……佑久さん、ってさ」
「?」
「たまに、ホント、俺もびっくりするくらい、突拍子もなく可愛いよね」
「え、えぇ?」
驚いたら、笑ってた。
笑って。
「佑久さんが歌えるかもつってた、その歌、歌ってよ」
「は、はい」
「佑久さんが聞きたい歌全部歌うよ」
「ええええっ、そんな、僕にはもったい」
「なくない」
「……」
「佑久さんが聞きたい歌、全部、歌いたい」
そう笑ってくれる和磨くんに、オオカミサンに、僕はきっと今までで一番、人生で一番ドキドキした。丸ごとの笑顔の君に、僕は手渡されたマイクをぎゅーって握り締めた。
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