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第59話 これは、夢かな。
きっと僕は今、天国にいるんじゃないかな。
花畑はないけれど。
もしかしたら、夢の中なのかもしれない。虹もないし、雲の上でもないけれど。
ほら、あの日の散らずに、まるで彼の歌声が聴きたくて咲き続けていた桜の、あの日の続きを夢で堪能してるとかなのかもしれない。
何度も何度も、もう数え切れないくらい「オオカミサン」の動画を見てた。聴いてた。
あの歌声がイヤホン越しじゃなく、直に聴こえる。
この四角い、僕の部屋の半分くらいのスペースの天国。
夢の世界。オオカミサンの歌を堪能したい、独り占めしたいっていう僕の願望。
あ。
でも。
ちゃんと痛い。
頬を抓ると、ちゃんと痛い。
だから夢ではないみたい。
「どうしたの?」
「!」
「ほっぺた、抓って」
「ぁ……夢、じゃないのか、確かめた」
「……っぷは」
だって、本当に、こんなの信じられないでしょう?
ずっと見ていた彼の歌声を僕はここで一人で聴いちゃうんでしょう?
コンサート、独り占めだなんて。夢か確かめてしまうに決まってる。
「痛いでしょ」
はい。ちゃんと痛かったです。
「ちょっと昨日、声、出せるようにしといてよかった」
声を出せるようにするって、準備運動みたいなこと、できるんですか? 喉の? 声の? 準備運動?
「佑久さんが歌って欲しいって言った時、声出なかったら恥ずいじゃん。つか、前に、動画撮った時さ、久しぶり過ぎたっつうのもあって、声、全然出なかったから。今回リベンジできた」
そう言って、少し自慢気に唇の端を吊り上げて笑ってる。
「歌って欲しいなんて、そんなおこがましいこと、言わない、です」
「えー、言ってよ。佑久さん、俺の彼氏じゃん」
「カレっ!」
「シ」
「カレっ」
「シ、でしょ」
カレシ。かれし。彼……氏。
「っぷは、すげぇ、不思議な顔してる」
だって不思議なんだもの。女性じゃないから僕は彼女にはなれないけれど、でも、彼氏と名乗るには僕はあまりにかっこよくなくて。
「でも、あの」
「?」
「和磨くんの、オオカミサンの、歌はすごく宝物だから」
なんて素敵な声なんだろうと思ったんだ。
僕は、あの日、本当に驚いてしまったから。
そこからずっと夢中で聴いている。何聴いても、何度聴いても、飽きることがないっていうことが、もうすでに素敵で、才能が溢れていて、宝物だっていう証明だと思う。
「僕はやっぱり、その、カレ、カレっ、彼氏っ、だからって、歌って欲しいなんて言えないよ。大事、だから」
うん。やっぱり言えそうにないです。それこそ、気軽には。
「……ありがと」
あ、やっぱりクセ、なのかな。
照れくさい時のクセ。
マスクをしている時はマスクの鼻先を摘んでいた。今はマスクをしてなくて、だから、鼻を自分の指で、ちょっとだけ触って。
僕はそんな彼がとても愛しくて――。
「……」
身体が勝手に。
「あ! あわっ! ごめっ! あのっ!」
触れたいって思ってしまって。
キス、してしまった。
隣に座る彼に首を傾げて、肩がちょっと触れ合ってから、それから、ちょっとだけ唇が掠めるくらいにだけれど、キスを衝動的にしてしまった。
「すみっ、すみませんっ! あの、僕! つい、勝手に」
ここ、個室だけど、外だった、ですね。
間違えた。
すごく、その、間違えて、つい、キスを。
「も、あの、すごく、襲ってしまって、本当にっ」
驚いたと思う。
そんなこと、外では憚られるでしょう?
あぁ。もう。
「やば」
「はい。やばい、です」
犯罪者です。
突然、プライベートな空間でもないところでキスなんてしたら、犯罪者です。
「と、ととと、とりあえず、僕も歌います」
「……」
「聞きたいと言ってもらえたので歌います」
少しでも罪滅ぼしに、ならないけど、なるように。和磨くんのして欲しいことは全部します。歌うでもなんでも。いきなり和磨くんにキスしてしまった僕は、自分のしでかしたことにがっくりとしながらマイクを握った。
ほら、イントロが流れ――。
「? あれ」
「あー、この歌、俺、けっこうアレンジしたんだ。特にイントロかなり雰囲気違うかも」
「そうなんだ」
「本当に俺の歌だけ聞いてんだね」
だって。和磨くんの歌声が一番なんだもの。
その歌は僕が聴き親しんでいるメロディとは全然違っていた。主旋律は同じなのに、その周りで踊っている音がまるで違っていて、マイクを握ったまま戸惑う僕のところでその音たちがクルクル回っているみたい。
「じゃ、一緒に歌う」
「え!」
「そしたら、イントロ入れるでしょ」
「え、あっ」
そして、僕の世界をあっちこっち広げてくれた。僕に歌の楽しさを教えてくれた。恋の素敵さも教えてくれた。それからキスをしたくなるような衝動も。
たくさん、本からじゃ得られない感触を、高揚を教えてくれた神様が僕の隣でマイクを握った。
「!」
柔らかい声。話している時よりも少し掠れた柔らかい優しい声が鼻歌混じりに。
「!」
僕と一緒に歌ってくれた。
だから、やっぱりここは天国で、夢の世界に違いないって思えて。
「……」
そっと、頬をもう一度抓ってみたけれど、やっぱりちゃんと痛かった。
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