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第70話 虜
まるで夏みたいだ。
もう夕方近くなのに、まだ少し暑くて、今、もういっぱいかき氷おかわりする? と尋ねられたら、ちょっと、「はい」と答えてしまえる、かもしれない。
あともうちょっとでライブだ。
店番が終わったあとは、最終リハに行ってくるって言ってた。
今頃、どこかでその最終リハーサルをしているのかもしれない。
「えぇ、じゃあ、和磨くん、ずっと寝てたの?」
「そう、爆睡」
楽しみ、だなぁ。
「それはすごいね」
「そんで起きたら無人駅。あいつ、けっこうおっちょこちょいだよ」
「そう、かなぁ……うーん」
大学一年の時、学科の飲み会で、たくさん飲みすぎた和磨くんは帰りの電車の路線を間違え、そのまま気がつくことなく乗ってしまい、電車の中で寝て、寝過ごしてしまって気がついたら山奥の最終駅に一人ぽつん、だったんだって。かろうじて、スマホの電波が届いていたらしく、救援を求める電話が市木崎くんに。
後でそんなことがあったの? と、本人に聞いたら、市木崎くん、余計なことを僕に教えたって怒られてしまいそうだ。
僕はそんなことを考えて、座っているベンチの背もたれに僅かに身体を預けた。
「ふふ」
「?」
「うん。でも少しおっちょこちょいなのかもしれない。僕が和磨くんに出会ったのも似た感じ、かな」
「へぇ、そうなんだ」
市木崎くんは話しやすい人だ。
僕なんかでも、こうして会話がポンポンと続いていくんだもの。これってとても珍しいことで。
いつもそうだった。職場の忘年会とか、会話がちっとも続かなくて、しまいには申し訳ない気持ちになってしまうんだ。それにきっといつも通り、僕は楽しくなさそうな顔をしてしまっているだろうし。そんなことないのだけれど。
そうして続かない会話や、いつもの自分の能面に気疲れしてしまって、苦手になってしまったんだ。飲み会とか人と接するのも、人そのものにも。
今の自分を、和磨くんに出会う前の自分が見たらさぞかし驚くと思う。
こんなに話しているって。
「僕もその日は飲み会があって」
確かに、ちょっとおっちょこちょい、だね。
「帰りの電車が何かトラブルとかで少し停車したままだったんだ。そしたら突然、電車動かないねって話しかけられて」
「あいつに?」
「うん。僕の隣に和磨くんが座ってた。僕をその飲み会で一緒にいた女の子だと思ったらしくて」
「あはは、あいつならあり得るかも」
「それで歌を歌ってるってイヤホンを貸してくれたんだ。それでそのままイヤホンだけ置いて電車降りてしまって」
あの時、僕の世界に衝撃が走ったんだ。
「その時、和磨くんの、オオカミサンの歌を聴いて」
音のない僕の世界に稲妻みたい閃光が走った。
「それで、イヤホン片方だけ預かってしまったから返そうと思って連絡して」
「……」
「そこからご飯誘ってもらったり。だから、やっぱり少しだけ和磨くんはおっちょこちょいなのかもしれないね」
僕はもうそこから彼の歌声の虜で。
「それまでは? 知らなかった? 和磨」
「あ、うん。知らなかった。というか、僕、動画とか見たことなくて」
「へぇ、今時珍しくない?」
「うん。そうだよね。歌もあんまり聞いたことなくて」
「へぇ」
「だから、和磨くんが、オオカミサン、がね、ナニナニの歌、歌いますって言っても、そのナニナニが知らなくて」
「なるほど」
だからいつでも彼の歌が僕の初めて。
彼が歌う度に僕はまた今まで聴いたことのない歌に、音に触れていく。
そして、それまで僕の、足元にだけ広がっていた僕の世界。
そうだな、それをスポットライトに例えるなら、うーん、どうかな。僕の足元の周り半径五十センチくらいかな、くるりと丸い光が照らしていたとして、彼の歌を聞く度に、それが少しずつ広がっていく感じ。そして彼と一緒にご飯を食べて、どこかに出かけて、誰かと話して、そうして、右側にもう十センチ、今度は左側に十五センチ、それから後ろにも五センチ、そうやって少しずつ足元を照らす光の丸が大きくなっていく。
「でも、他の人の曲とかも聴いてみたんだ。けど、やっぱり一番好きなのはオオカミサンの歌で。僕のスマホがね、またこの人の聴いてる、他もどうですか? って勧めてくれるんだけど、やっぱり一番は変わらなくて、最近じゃ僕のスマホもあまり他の人の歌は勧めてこないんだ」
少しずつ、少しずつ広がって、そしたら、今までは暗くて見つからなかったものがいっぱい。空の色もそう、太陽の暑さもそう、風もそう。
「すごいな」
「うん」
ほら、きっと以前の僕なら今ここにはいない。
だからこの夏みたいな風も空気も触れなくて。
市木崎くんのことも知らなくて。街ですれ違っても背が高い人だなぁって。
ううん。
もしかしたら、すれ違っても見なかったかもしれない。
足元ばかりを見て、俯いて歩いていただろうから。
「そろそろ、ライブの時間だね」
「……ぁ、あぁそうだね」
「今日は、すみません。あの、ありがとう」
「……いや」
「ライブ会場、あっち」
「そうだね」
そして、僕はベンチを立ち上がって。
「楽しみにしてたんだ」
一歩、また足を前に出す。足元には日が傾き欠けて随分伸びた影があった。地面は夕陽の色が少しだけ染み込んで、オレンジ色のレンガになっていた。
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