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第75話 にわか

 外に出ると、深く息を吐いた。 「……ふぅ」  そんなに緊張もしなかったし、早く帰りたいと思っていたわけじゃないけれど、それでもたくさんの人があっちこっちで話をしている中にいるのは不慣れだ。  けれど、外も人が行き交っていて、忙しそう。もう夜も更けているのに、まだこんなにたくさんの人があっちこっちとそれぞれの場所に移動しているって、よく考えると少し不思議な気がする。僕はいつものこの時間は部屋で本を読んでいたから。 「……」  まだ和磨くんは出てこないかな。  外で待ち合わせるから、どこか目印になるようなものを見つけなくちゃ。  コンビニ、かな。コンビニの前にいます、でいい、かな。 「……ぇ……と」  僕は市木崎くんと、この打ち上げパーティーを企画してくれた幹事の人に先に失礼することを伝えればいいだけだけれど、和磨くんは人気だからそう簡単には――。 「……ぁ」  思わず、小さく声が出た。そして、ふと気がついた自分の変化に周囲の通行人に不審者と思われないようにわずかに笑った。僕、前は、送別会で「それでは僕はここで帰ります」の一言を言うのすらタイミングが掴めなくて、難しかったっけ。けれど今の僕は言えるんだって気がついた。  ――もう少しゆっくりしていけばいいのに。  そう言ってくれる市木崎くんに。  ――うん。ありがとう。でも、そろそろ帰ります。市木崎くんには一日、とてもお世話になって、ありがとうございます。  僕はぺこりと頭を下げて、難なくお暇できたんだ。  笑って返事をすることだってできた。  前の僕だったらどうかな。笑ってたかな。  すごいな。  僕。  なんて、市木崎くんみたいに人付き合いが上手な人からしてみたら、そのくらいのこと? って、笑われてしまうほど些細なことだろうけれど。  和磨くんみたいに意思のしっかりしている人にしてみたら、そのくらい簡単ってなるだろうけれど。 「……」  和磨くん、遅いな。  コンビニにいます、じゃ分かりにくかったかな。もう出てきてるのかな。近くにコンビニがいくつもあるからわからないとかだったかな。それともまだみんなから上手く抜け出せてないのかも――。 「ねぇ、いーじゃん! ライブの再現だと思って」  少し和磨くんの様子を伺おうと、来た道を引き返して、近くまで戻った時だった。 「なんでよ。私、和磨の歌聞きたい! ずっと和磨の歌応援してたんだからっ!」  一人分しか聞こえてこない会話。 「私にも歌ってってば。一曲でいいし! どれでもいいから!」  けれど、そんな声が僕がさっき出てきた建物の通路から聞こえてきた。 「ねぇ、いーじゃん!」  女の人の、声。 「和磨っ」  歌ってとせがむ声。 「んー、また、そのうち」  もう少しだけ近づくと和磨くんの声も聞こえてきた。 「なんで? 一曲くらいよくない?」  あ。 「いいじゃん!」  ……だめ。 「和磨っ」  それは、だめ。 「ねぇ、ってば」 「よく、ないです」  突然割り込んだ僕の声に、和磨くんと、その腕をぎゅっと掴んで離さない女の子が、一時停止のボタンでも押されたように止まった。  ぴたりと止まって、僕の方を目を丸くして見つめている。 「……何?」 「一曲、でも、くらい、じゃない、です」 「……何」 「大事な一曲、だよ」  人を諭すなんてしたことない。  そんなの勇気もない僕はしようと思ったこともなかったけれど。  それは、だめだよ。 「君も和磨くんの歌を応援しているんでしょう? それなら、一曲くらい、じゃないよ。一曲を大事に歌っているんだ。だから、一曲くらいじゃない。どれでもいい、なんてわけない。和磨くんが丹精込めて歌った一曲ずつです。どれもどれでもいいから、では、歌ってない」  大事に歌っているんだ。 「だから、大事に聴こうよ」  僕の声が震えていた。  けれど、僕を睨みつけるように見ている女の子の肩も震えていた。 「だから」 「あんたなんか、にわかのくせにっ」 「……」 「私はっ、ずっと前から知ってんの! あんたみたいな最近なったファンじゃないのっ」 「……うん。僕は最近だよ」 「私はずっと前からなのっ」 「でも」 「うるさいっ」  彼女は掴んでいた和磨くんの腕を離して、打ち上げ会場の方へと戻っていった。 「……ぁ、の……ごめん。その、つい」  僕も、それから和磨くんも、置いてけぼりになったように、ポツンと通路に立っている。 「あの」  和磨くんは走り去っていってしまった彼女の方をじっと見つめてから、振り返り、こちらへとゆっくり歩いてきた。それから僕の手を指先だけで掴み、僕の肩におでこを乗せた。  近くて、ぎゅっと肩に力が入る。 「すご……佑久さん」 「あ、あのっ」  人を注意したことなんて人生初だったんだ。 「泣くかと思ったじゃん、俺」  良くないって思うことがあっても、本を粗末に扱う人を見かけたり、図書館の中で騒ぐ人にも、僕は注意なんてしたことなくて。いつも心の中で、良くないですって呟いて嘆くだけだったんだ。  生まれて初めて、人に注意をした。とても緊張した。心臓も飛び跳ねてる。手も冷や汗かいてるくらい。  だから大人なのに、和磨くんよりも五つも歳を多く重ねているのに、飛び跳ねてる心臓の音を聞かれてしまいそうで。ちょっと諭しただけで冷や汗ものだったと、掴んだ手で知られてしまいそうで。ちょっとドキドキした。 「……佑久さん」  そのくらいに近かったから。 「……ありがと」  そう小さく呟いた彼の声も、僕は聞こえた。

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