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第76話 世界を変えた

 ――ありがとう。  そう呟いた彼の声はとても小さくて、僕の肩に額をくっつけていなかったらきっと聞き逃してしまっていたと思う。  あんなに優しい声で、あんなにそっと囁いた、とても切ない感謝の言葉を僕は聞き逃さずにすんで、本当によかったと思った。 「……ぁ」  手を繋ぎながら駅のホームへと階段を降りていったら、ちょうど電車が発車する音が聞こえてきた。  乗り遅れてしまった。  でも、乗り遅れたかったのかもしれない。  和磨くんは。  慌てている様子もなかったし。  電車を逃してしまったことを嘆いてる感じでもなかったから。 「次、電車、十分くらいだね」  電光掲示板を見上げてそう僕が呟いた。  和磨くんはやっぱり手を繋いだまま、ホームを奥へと進んでいく。  前、電車を何本も見送って、乗らないまま、他愛のないおしゃべりをしていた時を思い出す。でもここは電車が行ってしまった直後でも、繁華街だからか人がちらほらいる。隣のホームにはたくさん人がいて電車を待っていた。  僕らはホームの端っこにあったベンチに腰を下ろした。 「半年、俺、歌ってなかったんだ」  ポツリと、まるで独り言みたいに和磨くんが呟いた。 「う……ん」  僕はそう頷くと、和磨くんが僕を見てちょっとだけ、溜め息混じりに小さく笑った。知ってるよねって、動画、たくさん見ていれば更新日から読み取れるし、って。  それから視線を隣のホームへと向けた。 「スランプ、つうか」 「……」 「歌うの、しんどくなって」 「……」 「別にプロじゃないから、仕事みたいに、しないといけないものでもなかったし」 「……」 「だからしばらくそのまんま」 「う、ん」 「歌のきっかけば単純だったんだ。カラオケでさ、点数、百点取った」  それはすごいことなのだと思う。それと一緒に、あんなに歌の上手い和磨くんがあの時、一緒にカラオケに行った時に、採点機能を使わなかった理由も、わかった。得点、僕はもちろん、百点も高得点も取れないけれど、和磨くんならいけるんじゃないのかな。けれど、やらなったから。 「九十点後半はちょくちょく取ってたけど、百点は初めてでさ。すげーって、それで動画にして配信した」 「……」 「それがきっかけ。名前も今みたいじゃなくて、和磨だからカズにしてたし。その一曲の後いくつか動画上げただけ。歌い手のオオカミサンとして始めたのはその少し後。最初の頃はさ、歌うのがすげぇ楽しいってだけだったから、たくさん動画にして配信してた。けっこうな頻度だった。アレンジするのも好きだったから頭の中、音楽でいっぱいでさ」  いいなって思った歌、歌ってみたいって思った歌、歌ったら面白そうだなって歌。それを見つけてはアレンジの仕方考えて。  歌って。  動画にしてアップして。  その歌に、いいねがくっつく。誰かが自分の歌にリアクションをした。すげぇ。  フォロワーが一人できた。すげぇ。  自分が歌った歌を誰かが聴いてる。  喜ばれて、褒められて、人気が出て。 「嬉しかった」  そう言った和磨くんの横顔は決して嬉しそうじゃなかった。 「あと、楽しかった」  今度は少し笑ってそう言った。 「そんで、若葉とか、いろんな知り合いも増えて、動画の編集の仕方に詳しい奴とかもいて、コンスタントに歌配信するようになった。そんで、オオカミサンの歌でこんなの聞いてみたい、とか、言われたりして。それを歌うとまたすげぇ拡散率高かったし、いいねも、フォロワーも半端なく増えてってさ」 「……」 「毎日夢中になって歌ってた。そしたら、喉風邪引いてさ」  声が枯れてしまったんだと、言っていた。確かに和磨くんは歌う時、少し掠れるところがある。声帯が弱いとかじゃないのだろうけれど、喉に負担、多少はかかってしまうだろうから、喉風邪を引いてしまったらきっと歌うのとても難しい。 「しばらく歌えるコンディションにならなくて。その時、アレンジして録音するとこまで準備を終えてた曲を別の歌い手が配信してさ」 「……」 「すげぇ、アレンジの仕方もかっこよくて。俺が歌うよりも良くて。断然、良くて。準備まで終わってたその歌、歌わなかったんだ」 「……」 「歌えなかった、かな」  和磨くんはそう呟いて、足を投げ出すように前へ伸ばした。 「俺が歌うよりその人が歌う方が良かったから」 「……」 「で、俺が歌えなくても、つーか、歌わなくても誰かが歌配信してる。俺が歌わなくたって、別に誰も困らないし、歌聞けないとかでもないって思った」  一つ、和磨くんが深呼吸をした。 「それでも足掻いてはみた」  こういうの歌って欲しいんだって探ったりするようになった。  多分、こういうのも歌ったら喜ばれるんだろうなって思ったりもした。  じゃあ、これは歌ったら、ビミョー? と、思って、別の歌に変えたこともあった。  そのうち、あれ? って。 「歌うの楽しい、面白い、って言うのがさ、気がついたら、小さくなってて、代わりに、次、この歌、アレンジ考えないと、とか、これ、音域違うけど、出るかな、とか、そんなんばっかりが頭ん中にいっぱいになってさ」 「……」 「そこで歌わなくなった」 「……」 「けど、ほら、やっぱ世界は変わんないし、他の歌い手がどんどん出てくる。俺じゃなくてもいー……って」  世界は確かに変わらない。 「そしたら、佑久さんが言ってくれたんだ」  ―― 魅力的だと思う。 「マジでビビった」  ―― 毎日聴いて、ます。 「聴いてるなんて思わないじゃん」  ―― 音楽、詳しくないから、何か、ちゃんとした感想とか、言えそうにない、けど。でも、ずっと、聴いてます。 「一生懸命にさ、ほっぺた赤くしながら、俺の歌の感想話してくれた」  ―― 本は好きだよ。でもその本と同じくらい、オオカミサンの音楽はワクワクする。 「ワクワクするって言ってもらえてさ、めちゃくちゃ嬉しかったんだ」  ―― だから、感謝して、ます。 「佑久さん」  名前を呼ばれて、心の中で返事をした。声が、上手く出てくれなかったんだ。あの時の、あの辿々しい感想が君にちゃんと届いていたと嬉しくて。  ――歌、聴けて。  本の虫が一生懸命伝えた言葉が。  ――ありがとう、ございます。 「ありがとう」  君に届いたから。 「あ、の……」  これも届けたいんだ。 「和磨くんの歌で世界は変わらないのかもしれないけど」 「……」 「でも、僕の、世界は変わったよ」 「……」 「一つは、人ひとり分の世界は変えたよ」  君の歌が素敵だと、伝えたいんだ。 「……ヤバ」 「?」 「今、泣くかと思った」  そう言って、君が笑ってくれた。  本の虫の精一杯の感想に君がとても嬉しそうに笑ってくれた。  

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