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第86話 のんびり屋

 大学行きながら、歌の配信者として活動するのって大変なんだろうな。  半年、歌を歌わなかった半年、の前は歌のことで頭がいっぱいだったって言ってた。歌える歌を見つけて、アレンジ考えて、収録して、配信して。また次の歌を……それはきっと僕のような不器用な人間には到底できないことだと思う  きっと、僕は少し、のんびり屋なんだ。  きっと他の人よりもずっとゆっくり進んでいるんだろう。  今までは本を読んでいるばかりで、視野はいつだって自分が手元で広げた本だけ。  僕の世界は本を読むことしかないから、他人に干渉されない。その分、僕は周りの様子はわからないまま。だからどれだけ周囲が目まぐるしく流行が変わっていくのかも、みんなの話したい話題がどんなものなのかも、これっぽっちもわからないくらい。  目を回してしまうくらいに早いのだろう。  ほら。  もう、オオカミサンがすごく話題になってる。  気がつくと、彼のSNSもチャンネルも登録者数はものすごい増えていた。  きっと、昨日、今回オオカミサンがディエットで「歌ってみた」を配信した影響もあるんだと思う。  昨日、ちらりと更新した彼女の動画。  向かい合わせで和磨くん、 オオカミサンが、スタジオ、かな。座っていて、レコーディング風景なんだと思う。座ったまま、ヘッドフォンだけ耳に当てて、まるでおしゃべりでもするように歌を歌い合っていた。  ものの三十秒くらいの短い動画。  そこにはサブタイトルで、ただいまちょっとコラボ、を予定してますって綴られていた。  そこから、まるで導火線に火をつけたみたいに、ぱぱぱぱっと和磨くんのSNSが見つかって、チャンネルが話題になって。もうその頃には、アーティストさんの公式アカウントのリアクションがものすごい勢いでついて、和磨くんの方にもすごくて。  かっこいい、と話題になっていた。  イケメン、って言われてた。  たくさんの人が、そう言っていた。  なんだか、まるで芸能人とかモデルさんみたい。  僕からは縁遠いところの人みたい。  ちょっとだけ。 「……」  なんというか。  ――たーすくさん。なんか面白い小説ある?  図書館って、こんなに静かな場所だったっけ。  ――あ、立ち読みしてる司書さん発見。  図書館って、こんなに溜め息ひとつでさえとても大きく聞こえるよな場所、だったっけ。  僕の。 「……」  小さな小さな溜め息ひとつでさえ、こんなに聞こえちゃうくらい。 「こーんにちは」  だったっけ。 「……あ、若葉、さん」 「びっくりした?」  はい。とても。 「あは。ね、今日、お仕事は早番? 遅番?」 「ぁ……えっと、早番、です」 「ラッキー。じゃあ、一緒にご飯食べない?」 「……ぇ、あ、はい」 「私、それまで、佑久くんの六月オススメ小説読んで待ってるね」  若葉さんは、今日はとてもナチュラルだった。お天気もいい今日はサンダルがちょうどいいくらいの陽気なのかもしれない。  図書館の中は空調が温度設定は少高めだけれど、一定になるよう設定されているから、わかりにくいんだ。  けれど、日差しは夏みたいだったから。  ちょうど。  ――ペタン……ペタン。  素足が涼しげなサンダルでちょうど良さそうだった。 「お、お待たせ、しました」 「ううん。ちっとも」  仕事を終えて、スタッフ用控え室を出ると、そのまま雑誌や小説、なんでも読めるフリーススペースへと向かった。飲食は厳禁。パソコンも、キーボード使用のものは不可。タブレットならOK。自身で持ち込んだ本も読める、比較的自由な読書エリア。そこに若葉さんがいた。  静かに、肘をテーブルには置かず、背筋を伸ばして本を読んでいる。  眼鏡、かけるんだ。  本読む時。  なんだか、素敵。  若葉さんは僕が来たことにすぐに気がついて、かけていた太めのフレームの眼鏡を外すとにっこりと笑った。 「もう終わったの?」 「あ、はい」 「じゃあ、ごめん、ちょっと待ってて」  彼女は読んでいた本をパタンと閉じる。  それ。  僕が六月のオススメ小説としてコーナーに置いたのだ。  六月、僕なりにイメージしたテーマは「梅雨の長雨の中、しっとりと部屋で過ごす時間に浸れる本」だった。  楽しかったかな。 「続き、気になっちゃって」  それなら、よかったです。  彼女はもう慣れたものだと、読み途中の本を貸し出し機のガラスのテーブルに置くと、手続きを終えて、黄色が渋い深みを持っている革製のカバンにしまった。  それから二人で図書館を出た。  外はもう、日が傾いていて、空が夜に変身したそうに色をジリジリと変え始めているところだった。 「本当、佑久くんの勧めてくれる本、面白いのばっかり」 「ありがとうございます」  六月、雨がたくさん降って、紫陽花がその雨雫に濡れて、色が深く濃くなる。そんなシトシト雨の中で、読んで雨も堪能できるような、そんな小説。  と、思ったんだけど。 「それにしても、まだこの時間になっても少し暑いねぇ」 「……はい」  まだ、六月始まったばかりなんだけど。  でも、僕は少しのんびり屋で、季節も時間も、僕よりせっかちらしくて。  雨を思っている僕の横をいつの間にか通り過ぎて、夏のすぐそばまで来ているみたい。 「ね、佑久くん、お腹空いた?」 「はい」 「じゃあ、何食べよっかぁ」  ほら、昼間の熱を持ったままの風が僕と若葉さんの横を通り過ぎて、駅の方へと走っていった。

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