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第95話 雨の日
僕が知らなかっただけみたい。
結構有名な、最近の若い人の間ではとても有名なミュージシャンなんだって。ハルを歌った彼女。実力もあって、美人で、モデルのように容姿端麗で。
特に若い女性の憧れなんだって。
そんな人と、やっぱり若い人たちの間で人気になっていた「オオカミサン」のコラボはものすごい話題になった。毎日、SNS、インターネットのニュース、どこかしらで、オオカミサンの名前を見かける。
それと、彼女の名前も……。
「……すごい……ポスター……」
梅雨に入ってから、雨がずっと続いていた。
だから今日もずっと傘を指していて気が付かなかった。
大きな駅の商業ビル、その大きなガラス窓に貼られたポスターに。
和磨くんとコラボした彼女が写っていた。
香水の宣伝ポスターかな。ミュージシャンなのに香水の宣伝キャラクターになってる。そのくらい人気のある有名人だったんだ。
声はふわりとしていたけれど、瞳はとても意志の強そうな力強さがある。僕には少し強烈すぎて、射抜くような鋭い眼差しと、芯のある女性だと思わせる、キリリとした眉に、長い長い睫毛。僕は思わず俯いて、もうびしょ濡れの石畳に打ち付ける雨雫を見つめた。
今日も一日雨降りらしい。
今、すっぽりと日本中が梅雨入りしているから。
カラッと晴れた日がほぼなくて、傘を手放せない日々で、近藤さんは髪型が気に入らなくなるから湿気が大の苦手らしくて、ちょっと今朝も不服そうに自分の前髪を直していた。
僕も、梅雨は苦手。
図書館だとそこまで気にならないけれど、湿気で本の紙質が変わって、なんだか指に張り付くような感じがするから。読むのに気が散ってしまうんだ。
それに、若葉さんに教わった、ふわふわに乾かすヘアセットをしても、すぐにぺちゃんこになってしまうから。
でも、ぺちゃんこでも、別に――。
「っと、いけない。待ち合わせの時間」
雨だからと少し早く出てきたのに、こんなところで道草している場合じゃないでしょう? と、僕は待ち合わせをしているお店へと、パシャパシャと足元の雨を跳ねさせながら、急足で向かった。
「いらっしゃいませ」
「あ、いえ、違いますっ、あの、待ち合わせて、先に」
「はい。お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「あ、えっと」
「すみません。大丈夫です」
「!」
店員さんへ、「待ち合わせていて、先にもう来ているから席の案内とか大丈夫です。電話を今さっきもしましたから」って言いたかったけれど、突然声をかけられて、思っていたことの全部が吹っ飛んでしまった。
「こんばんは」
ダメだな。やっぱり、人付き合い、下手だ。
「ぁ……」
「電話くれたから迎えに行こうと思ったとこ」
突然だとどうしてもまごついてしまって、カッコ悪い。
「ちょうどだったね」
彼みたいにスマートにできたらいいのに。
「ぁ、りがとう。市木崎くん」
「どーいたしまして。なんか大雨になっちゃって、ごめんね」
「ううん」
ニコッと笑って、彼が店員さんの代わりに僕を案内してくれた。
「ご、ごめんっなさい。その雨だから早めに出てきたんだけど、道やっぱり間違えちゃって」
「いや、俺ももう少しわかりやすい店にすればよかったなって」
「ううんっ」
とんでもないよ、って首を横に振った。
「ここ入りにくいし、見つけにくいし、中、狭いんだけど、飯は本当に美味いから」
「う、うん」
「ここは、和磨、紹介しなかった?」
「あ、うん」
「そっか。まぁ、確かにデートには不向きかな」
「デッ!」
和磨くんには色々な場所に連れて行ってもらった。美味しいお店、けれど美味しいだけじゃなくてちょっと変わった面白いお店をたくさん知っていて、すごいなって思った。どうやってそんなところを見つけるのだろうと不思議だったけれど、市木崎くんや若葉さんに教えてもらったんだ。市木崎くんはとても交友関係が広くて、いろいろなお店を紹介してもらっていて、そこに今度は和磨くんを含めた大学の友達と行ったりもして。
「でも、あいつはデートのつもりだっただろうから」
「っ」
ニコッと、笑ったところで、市木崎くんが予約してくれていたテーブル席に到着した。
確かに狭い。人が四人は入れない狭いスペースが壁に張り付くように作られていて、格子で顔の辺りだけ障子が貼り付けられているだけ。あとはその格子の隙間から手を出したら、人に届いてしまいそう。
「狭くてごめん。でもここの釜飯、デカくて美味いんだ」
「ううん。全然」
狭くても、平気ですってぺこりとお辞儀をして席につく。腰を下ろしかけたところで市木崎くんと目が合って、そしたらまた、ニコッと笑ってくれた。
「何する? 釜飯。俺のおすすめは、鯛、いくらも入ってて、すっごい美味い。これ食べてる間は、この個室サウナみたいな狭さが気にならないんだ」
「っぷ」
「?」
「個室サウナに例えるから」
そこまではここは狭くないと思うよ? なんだか、個室サウナっていうと、もう細長い四角くい箱に人ひとり、身動きもできない様子を想像してしまう。そこで美味しそうに鯛釜飯を食べてる市木崎くんを想像したら、ちょっとおかしくて。
「ふふ」
こんなに手足の長い人がって思うとおかしくて。
「最近、和磨とは連絡取れてる?」
「……ぁ」
「椎奈さんも」
「……うん」
取ろうとしてるんだけど。お互いに。
どうしてか僕が電話を手元に置いてない時に和磨くんが僕に電話をくれて。僕が電話をした時は和磨くんは忙しいみたいで。
ここのところ、お互いの不在着信だけが履歴にどんどん溜まっていくばかり。
「でも、歌、頑張ってると思うよ」
「……椎奈、さん」
「あの、じゃあ、僕、鯛釜飯にします」
「ぁ、あぁ、じゃあ俺も」
ニコッと笑った。
今度は僕が。
今日、暇だろうと僕を誘ってくれた優しい市木崎くんに、ありがとうって、ニコッと笑った。
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