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第96話 遠くて
帰り道、湿気が溢れるくらいに充満している気がする電車の中で、読んでいた本の指触りに手が止まった。
窓の外へと顔を向けると、真っ暗な窓には僕自身が映し出されていて、そのガラスの外側には次から次に雨雫が打ち付けられている。
「……」
優しい人だなぁ。
市木崎くん。
――大学にも来てないんだ。まぁ、あいつ、単位ちゃんと取ってたから大丈夫だけど、でも、椎奈さんには連絡。
ううん。
そう慌てて答えた。
僕は邪魔したくないんだ。それが一番、したくないこと。
和磨くんが歌を歌う、その邪魔にだけは絶対に、なりたくないから。
僕には連絡しなくていいよ。
打ち合わせとかボイストレーニングとか、そっちのほうを優先させて欲しいんだ。
そっちを優先させてくれないとイヤなんだ。
だから、ううん、なんだ。
大丈夫、なんだ。
梅雨、長いのかな。
今日も雨だ。
昨日も雨で。
明日も雨って天気予報で言っていた。
「あ、椎奈くん」
「近藤さん」
「今日、新刊にチップ取り付けるの」
「あ、うん。僕も手伝うよ」
「ありがとー。今年の夏休みは本、たくさん読んでもらいたくて、児童書すっごい入荷依頼しちゃったんだよー」
「知ってる」
僕もそのリスト見たよって言って笑った。少し驚くくらいの量だった。
「ほら、隣町が再開発で駅直結のマンション作ったでしょ」
「あ、うん。そうだっけ」
「そうなの! それで、そのマンション、一階が商業施設で、二階が図書館なんだって」
「へぇ、それは便利だね」
「便利だね……じゃないよ! ここの図書館が一番大きかったのにー」
本の虫はどこの図書館でも新しくできるのも大きくなるのも大歓迎だよって、また笑った。
「じゃあ、音読会、頑張らないとだね」
「……なんか」
「?」
「なんか、椎奈くんって、印象変わったよね」
「……ぇ」
ポカンって顔をしながら近藤さんがポツリと、独り言のように呟いた。
「もっと前は笑わなかったし、こんなに話たくさんしなかったなぁって」
「……」
「今、すごく話しかけやすくて、って、ごめんっ。私、今相当失礼なこと言ってるよねっ」
「……」
「ごめんね」
「ぁ、ううんっ」
前は確かに笑わなかったもの。
「全然」
前は確かに話さなかったもの。
だから失礼なんかじゃないよって、また僕は笑った。
本にチップをつける作業を終えたのは夜の九時すぎだった。十時前、って言った方がいいかもしれない。
「遅くなっちゃった……」
図書館内、業務中はスマホを持ち歩くのも禁止になっている。僕は近藤さん含め、他の方に挨拶をして、いつも通りに図書館を出て、いつも通りに駅へと向かって歩き出す。そしてそこでスマホを鞄から出して。
「……」
夜の七時に和磨くんから電話が来ていた。
もう十時になる。明日もきっと彼は忙しいでしょう? 電話、してみたら、出るかな。でも、明日も早いかもしれない。
今はとても忙しい時期だろうし。
「……」
それでも、電話を、と不在着信から和磨くんへ電話を折り返そうと思った時だった。
「!」
若葉さん、だった。
電話、来た。
「……もしもし」
『ごめんね。夜遅くに』
「いえ、今、仕事終わったところで」
『そうなんだ』
「あの……」
『和磨、忙しいみたいだね』
「そうですね」
そう。忙しそう。
でも、今日は何をしているのか、どこにいるのか、誰といるのか。僕にはわからない。SNSを追いかけたりしないとわからないんだ。
僕は彼のそばにいなくて。
当たり前だけれど、同じ人間じゃないのだから、全てはわからなくて。
「……」
『佑久くん? ……大丈夫?』
「……ぇ……と」
電話をしながら、ぽつりぽつりと歩いてた。その足が、一瞬だけ、止まっちゃった。
大丈夫? って、そうストレートに言われてしまったなぁって。
「大丈夫、です」
この前はあんなに近くに和磨くんがいたのに。
『今だけだと思うよ』
「はい」
手を離してしまったら、途端にこんなに離れてしまう。
『だから』
「大丈夫です」
きっとプロディースしてもらうために色々頑張っているんだと思う。デビューというか、プロモーション活動とかあるんだろうし。
でも、まるで遥か遠くにいるみたい。テレビ、観ないから、わからないけれど。雲の上の人って感じ、かな。
もう、僕のこの手はどんなに一生懸命に伸ばしたところで、彼には触れられないような気がしてくる。
「むしろ、芸能活動とかしながらだから大変だと思います。大学も休学とかしてるわけじゃないらしいので。単位しっかり取ってたから平気みたいで。なので、僕のことは三番目でも四番目でもいいんです」
『そんなわけないよ。和磨は佑久くんのこと』
「僕は、いつでも応援しているので」
『……』
「なので、一番後ろでも、待ってられます」
それは本当。
「あの、心配してくれてありがとうございます」
『ううん。ごめんね。夜遅くに』
「いえ! 本当にありがとうございます」
一番最後でいいよ。
一番、後回しでいいんだ。
この間、僕に会いに来てくれたから、もうそれだけで充分嬉しかったから。
だから、大丈夫。
「それじゃあ、おやすみなさい」
『……うん』
電話を切って、人が随分と少なくなった駅の改札を通る。
「……」
駅のホーム。
ここで、和磨くんとたくさん話したっけ。
「ねー、ここの駅でちょくちょく見かけたよねー」
「銀髪のイケメンでしょー」
「超びっくりしたー」
女子、高校生、かな。
オオカミサンのこと、話してる。
「近くの大学行ってるんだってー、大学祭で歌ったとこ、見たって子いた」
「マジか。うらやま」
大学祭で、そう、歌ったんだ。
きっとまた最近、ぐんとたくさんになっただろうオオカミサンのファンは残念がってるだろうな。動画配信も止まってるから。
―― 私はっ、ずっと前から知ってんの! あんたみたいな最近なったファンじゃないのっ。
ふと、彼女の言葉を思い出した。ずっと、オオカミサンのことを応援していたファンで、同じ大学の友達で、和磨くんのことを好きだった子。
きっと彼女もこういう気持ちだったんだろう。
「……」
手。
「……」
伸ばしても、触れられそうにない。
思い出す彼の色々な表情。けれど、今、どんな顔をしているのは僕には全くわからなくて。
「……さ……しい……」
滲み出るように、気持ちが、つい口をついて出てしまって、僕は届きそうもない手をぎゅっと引っ込めた。だって、ほら、雨が降ってるから、手を伸ばすとね。
「……」
傘から外に出てしまうんだ。
濡れてしまうから、手を、引っ込めた。
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