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第97話 友達
「椎奈くん、お疲れ様」
「近藤さん、お疲れ様です」
スタッフ控え室に入ろうとしたところで、児童書エリアから戻ってきた近藤さんと鉢合わせをした。
今日も雨だったね、と、室内でも湿気を感じるほど随分と長く降り続く雨の毎日に、溜め息を溢してる。
「早く梅雨開けないかなぁ」
「うん、そうだね」
僕も、あまり梅雨が、というよりも雨の湿気が好きじゃないから、苦笑いをこぼしつつ、帰りの支度を手早く済ませた。
鞄の中にしまってあるスマホをちらりと見て、それだけポケットへと移し替えて。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「あ、お疲れさまです」
外に出ると、この前まで、少し汗ばむ陽気だったのが嘘みたいに、半袖のTシャツでは肌寒さを感じる冷たい雨だった。
本当に、雨がずっと続いてる。
大学祭はほんのちょっと前のことなのに、嘘みたいに陽気が違いすぎて、はるか昔のことみたい。
あの日はかき氷が美味しいと感じるくらいに暑かった。
今日は、かき氷を食べたいとはちっとも思えない。
歓声もすごかったっけ。その歓声が全て彼の元へと集まっていく。僕はただただその様子に見惚れるばかりで。なんて人なのだと思ったんだ。
あんなに感動したの、生まれて初めてだった。
あの日は、楽しかった。ライブもすごくすごく楽しみで、そして実際、とても楽しくて。
今日は……。
「……」
あの時に和磨くんが歌った歌を今日は聞いて帰ろうかな。
「……」
和磨くん。
レコーディングとか、大変、なのかな。
したことがないからわからないけど。
どんなものなのか、日々、和磨くんがどんなことをしているのか、僕みたいな、ただの図書館司書には見当もつかないけれど。
「先に、傘……」
そう思って、傘立ての中から僕の傘を探していた。
「えっと……」
もしかして傘、持ってかれちゃった、かな。ただの黒い、なんの特徴もない傘だったから。間違えられてしまったのかもしれない。
折りたたみ傘、あったよね。
そしたら――。
その時だった。
スマホが、ブブブブって、僕のポケットで。
「!」
僕が早番だったら、ちょうど仕事が終わる時間。
ちょうど、彼と待ち合わせを、下のカフェでしていた時間。
そのタイミングでスマホが振動したことに、僕は飛び跳ねて、傘を探すことそっちのけにして、ポケットの中からスマホを取り出した。
「……ぁ」
和磨くん、かと思った。
「……こんにちは」
『椎奈さん?』
「お疲れ様です」
ちょうど、「いつもの」時間だったから。
『椎奈さんこそ、お疲れ様』
市木崎くんもそうだよね。同じ大学で学科も和磨くんと同じだもの。きっとこのくらいの時間には講義はもうないのかもしれない。
『雨、長いね』
「うん、そうだね。職場の人がみんな洗濯物が乾かないって嘆いてる」
『あはは、確かに』
女性陣からは大ブーイングなんだ。主婦をしている方もいるから、洗濯物が乾く乾かないは死活問題だって言ってた。
「あ、市木崎くんも、外?」
『そう』
彼の電話越しの声のもっと遠くに雨の音が聞こえた。同じように外にいるみたい。ほら、雨の。
「一日中雨だね」
「……ぁ」
びっくりした。声が、スマホからも、直接耳にも、聞こえてきて。
「お仕事、お疲れ様」
「あ、市木崎くん」
「そうだ。図書館出たらそのまま駅、行けるんだっけって慌てて上ってきた」
大きな傘にたくさん雨粒をつけて、市木崎くんが、湿気が少し鬱陶しいのか髪をかき上げて首を傾げた。
「今日、早番だった。よかった」
「……あの」
「傘、もしかして、ない?」
「あ、そうみたい。誰か間違えて持っていっちゃったみたいで」
「なんだ。俺、すごい役に立てた」
「……え、でも」
「一緒に、晩飯どう? って言いに来たんだけど、ついでに傘、入ってく?」
「あ……の」
「どうぞ」
そして差し出された傘は随分と僕の手前で、それじゃ、市木崎くんが濡れてしまうから。
「あ、あの、濡れちゃうよ」
「うん」
ほら、肩が。
「だから早く、傘入って」
「ぁ、うん」
頷いて僕は大急ぎで彼の傘の下へと飛び込んだ。市木崎くんは、また、髪をかき上げて、今度はにっこりと笑っていた。
「今日は……」
和磨くん、大学、来てましたか?
なんて、訊いたら失礼かな。市木崎くんを和磨くんの様子伺いに使うようなこと、だよね。これじゃ。
連れて来てくれたのはカレー屋さんだった。カフェみたいな感じで、カウンターがあって、奥に二つだけテーブルがある小さなお店。図書館の近くにこんな場所があったなんて知らなかった。
今日は雨降りだからか、小さなお店のは僕ら二人しかいなくて。カウンターの中にいる女性の、店主さん、かな。その人がのんびりとコーヒーを淹れていた。その向こう、お店の扉から見える外は分厚い雲が広がっているせいで薄暗くて、雨で道もびしょ濡れのままだ
「和磨のこと?」
「あ……」
「来てたみたいだけど、俺はちょっといなかったんだ。ごめん。何か伝言とかあった?」
「ううんっ、ないよ。元気だったならそれで」
「……やっぱり、会えてなかったり、する?」
「ぁ……えっと」
こんなこと、市木崎くんに言っても困らせるだけなのに。
「電話もらうんだけど、僕、タイミング悪くて出られなくて。掛け直すと、今度は和磨くんが出られなくて」
「……」
「邪魔になっちゃっても悪いし」
「……」
「だから、あんまり遅い時間は」
「邪魔」
「……」
「になんてならないんじゃないかな」
「……ぇ?」
パッと顔を上げると、ホッとしてしまうほど優しく笑ってくれていた。
「椎奈さんが夜遅くに和磨から電話来たら?」
「……出る、よ」
きっと大急ぎで出る。
「だから、今度、電話してみたら? 邪魔するの悪いなって気がするなら、先にメッセージで夜に電話するって言ってさ」
きっとそれが夜何時だって出るよ。
「……うん」
コクンと、頷いたら。
「ね?」
市木崎くんが優しく笑ってくれて、僕はその笑顔に、それから運ばれてきた美味しそうなカレーの匂いに、なんだか急にお腹が空いてきてしまった。
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