98 / 131

第98話 冷たいお水

 ――邪魔、になんてならないんじゃないかな。  そう市木崎くんに言ってもらえた。  そう、かもしれない。  僕なら、ちっとも邪魔になんてならないよ。むしろ嬉しいよ。  だから大丈夫かもしれないって思った。 「……よし」  市木崎くんの言葉に背中を押してもらったから。朝、仕事に行く前に、ちょっと送って見ようかなって。ぎゅっと、気持ちを固結びに結んで、スマホを握った。  そもそもスマホで文字を打つのがそんなに得意じゃないから、ちょっと緊張しながら。  朝なら、大丈夫だよね。  この時間なら、そろそろ大学始まるだろうし。大学、今日はお休みだとしても、歌の方の活動だとしても、メッセージひとつくらいならそこまで迷惑じゃない、でしょう?  受信、するだけだもの。  ――今日、夜に電話をかけてもいいですか?  電話するって、伝えるだけだもの。  もし忙しくて電話に出られないならそれでもいいし。  あ、じゃあ、そのことも書かなくちゃ。  ――今日、夜に電話をかけてもいいですか? 寝てしまっていたり、疲れているとかなら全然、そのまま出ないでいてもらって大丈夫です。  長いかな。メッセージ。  話せそうなら、出てもらえたら嬉しいです、とかの方がいいかな。気負わせるの良くないと思うし。  ――今日、夜に少し電話をかけてもいいですか? 忙しくて出られないなら全然気にしないでください。  じゃあ、なんのための電話ですか? ってなるかな。  ――少しお話しできないかなって思って。  そう理由つけた方がいいかもしれない。内容がわかるし。  あ、でも、これだけだと、何時かわからないよね。  今日……うーん、あまり睡眠の邪魔にならない時間帯で、なおかつ、歌の活動の邪魔にもならない時間帯。  十時かな。  十一時?  十一時じゃ遅すぎるよね。  じゃあ。  ――今日、夜の十時から十一時の間に、少し電話をかけてもいいですか? 忙しくて出られないなら全然気にしないでください。少しお話しできないかなって思っただけです。  これでいいんじゃないかな。  どうかな。  ダメ、かな。  ダメ、じゃありませんように。  長いかな。  長くても、邪魔になりませんように。  我儘かもしれないけれど、ちょっとでいい、一分でも和磨くんと話しがしたいだけ。ただそれだけ。 「そ……しん」  本当に、ただ声を聞きたかっただけなんだって、胸の内で呟きながら、送信ボタンを、そっと、でもしっかりと押した。  送信したのは朝、大学で講義が始まる頃、かな。スマホの電源切りなさいって言われてるだろうから、気がつくのは講義と講義の間、もしくは昼休み。もしかしたら大学が終わった夕方かもしれない。今日は特に忙しいのかも。  だって電話も特に来てないし。普段なら一度くらいすれ違ってしまうけれど着信あったりするから。  だから、すごく忙しくて電話出られないんだろうって思うんだ。  でも電話するの夜だし。  電話する時間も伝えたし。  理由も伝えたから、大丈夫。  ありがたいことに少しでも、五分でも時間をとってくれることを願っているだけで。 「僕、お先に失礼します」  今日は夜、少しお話しをするから、早めにご飯食べようかな。  雨降ってるから買い物はあんまりしたくないけれど、何か冷蔵庫にあったかな。ぐるりと遠回りだから少し面倒。  早く食べてしまいたいし。  うーん。  ご飯、どうしようかな。  何を――。 「椎奈さん」  食べようかなって。 「椎奈、佑久さん」  考えてた。 「初めまして」  初めまして、だけれど、僕は知っている人。  けれど、彼女は僕のことなんて知るわけがない。  僕はそこらへんにいくらでもいる図書館司書、なんだから。  彼女はとても有名で、もしかしたら知らないなんて人いないのかもしれない。 「私、ミュージシャンの」 「……あ、の」 「?」 「存じて、ます」  知ってる。和磨くんとハルを歌うプロのアーティスト。  和磨くんの歌ったハルを見つけて、一緒に歌おうって誘ってくれた人。  有名で、女子中高生達が憧れている人。  話題の、人。  近くで見ると、大きな瞳がすごく強くて、なんだか目を逸らしたくなる。ツヤツヤの髪は手入れをとてもしてあるってわかるから、僕の、梅雨空にはぺちゃんこになってしまう髪型じゃ、見劣りしてしまって、萎縮したくなる。  小さく、縮こまりたくなる。 「それなら話が早くて助かります」 「……ぁ、の」 「単刀直入に言わせてもらいますね」  歌声よりもはっきりとした声。歌う時のフワフワしたところはなくて、もっと鋭い気がする。  僕は喉奥がぎゅっと締め付けられて、返事が上手くできなかった。 「彼の恋人」  だって僕、わかるんだ。  そういうのは昔からわかってしまうんだ。  あ……って、気がついてしまう。 「でしょ?」 「……」  彼女は僕のことが嫌い。 「ごめんなさい。申し訳ないんだけど」  それが声に、視線に、蓋をした途端に溢れたお水みたいに、零れ出していて。 「別れてあげて、もらえないかなって」  そのお水が飛び上がるほど冷たいから、氷のように冷たいから、僕は喉奥がぎゅと締め付けられて、声が出なかった。 「彼のために」  ちっとも、声が、出なかった。

ともだちにシェアしよう!