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第99話 初めてだ。

 まるで小説の中のことみたいだって。 「別れてあげて、もらえないかなって。彼のために」  そう思った。 「同性愛を否定するわけじゃないの。でも、今、彼、プロとしてデビューしようって話になっていて。知ってる、かな?」  まるで僕は何も知らない「部外者」みたいだ。その部外者に、こちらはこうなっていますって教えてくれるような口ぶり。 「私も初プロデュースでコケたくないというか。彼、ルックス、いいでしょう? 女性ファンも多いし。女子中高生にはすごく人気で。だからそんなファンからしてみたら……ね? それにゴシップは、ほら、ないに越したことがないでしょう?」  綺麗に、澱みなく、溢れて流れだす、僕らを否定する言葉が、まるで用意された小説の中のセリフみたい。 「それに貴方は一般の人だもの。今までのように生活できなくなる可能性もあるのよ」  彼女の刺さるような視線も、足元に水でもかけられているように、話しかけられる度に身体が冷えていくような気がする冷たい声色にも。  こんなに、痛いことをぶつけられたことがなくて、まるで小説の中にでも飛び込んだよう。 「貴方にとってもデメリット多くない?」 「……」  僕が、和磨くんの同性の恋人だとバレて、そしたら、周囲にそのことが知られて。僕はただの地味な図書館司書なのに、そうも言っていられないかもしれなくて。  だから、別れた方がいいと、彼女は言ってくれている。 「……も……」  でも、そう言おうと思った。  でも、それを和磨くんに言われるのではなく、彼女に言われるのはおかしいでしょう? だから、でも、って反論しようと思ったんだ。 「彼のこと、応援してるんでしょう?」  けれど、その言葉に、反論の「でも」がキュキュッと喉の奥に引っ込んでしまった。  和磨くんのこと、本当に応援してるから。 「すごく今頑張ってるわ。彼」 「……」 「邪魔に」 「……」 「なると、思わない?」 「……」 「きっと、あなたには想像できないだろうけど、すごく大事な時期で、すごくナーバスにならないといけない時期なの。本当に多忙だしね。多分、一般人にはよくわからないと思うけど」  確かに僕にはわからない。プロのアーティストの日常なんて。芸能界のことなんて。ただの図書館で働く司書の僕にはちっともわからない。 「その証拠に、今、すれ違ってばかりだと思うし」 「……」  そう、確かにすれ違ってばかりで。  僕の生活と彼の生活はきっと今、全く違う速さで動いてるんじゃないかな。  僕のは変わらず。朝もお昼も、夜も、同じように時間が流れていく。淡々と。けれど。  和磨くんは濁流みたいに忙しいのかもしれない。目まぐるしくて、あっという間に一日が終わってしまうのかもしれない。 「連絡、すらままならないでしょう?」  そう。  本当に嘘みたいに電話で言葉を交わすのすらままならなくて。  きっと和磨くんはとても疲れているんだと思う。帰ったらすぐにでも寝てしまうのかもしれない。 「彼も、一生懸命こなしてる最中で。大学も行きながら、プロのアーティストになるためにって。それだけでも一日が二十四時間じゃ足りないのに、貴方にまで割く時間」 「……」 「あると思う?」  わからない。僕は、彼ではないし、僕はプロのアーティストでもないから。 「大事なのって、恋愛事?」 「……」 「彼の将来、じゃない?」  それは、そうなんだ。僕は彼の、和磨くんの将来をとても大事にしたい。  僕は彼ではないから。  彼は、僕みたいな一般人の、平凡な、どこにでもいるような人ではないから。  彼には、彼の歌には、人を魅了する力がある。それは誰もが持っているものじゃなくて、誰もができることじゃない。だから大事にしないといけない、彼の才能を。 「きっとあなたは分別のある人だと思うので。すごくありきたりな言い方だけど、彼のためになることを大事にして欲しいの」 「……」  あなたに言われることじゃない。言われて、それに頷くのは、和磨くんに言われた時、だと思う。  けれど、あなたに言われたこと、正しい、とも思うんだ。 「それじゃ」  冷たい水。 「仕事後に引き止めちゃってごめんなさい」  すごく、指先からかじかんでしまいそうな冷たい、水みたい。  だから、ごめんなさいって、放たれた謝罪の響きはない、無機質な言葉に「いえ」と返事をすることすら、かじかんでしまって、できなかった。  夜に電話しますって言ったけれど。  今、ちょうど、十一時。 「……」  初めて、だなぁ。 「……」  読んでる小説の内容がちっとも頭に入って来なかったのは。  小説を読んでいる最中に何度も時計を気にしたのは。  初めてだ。 「!」  そして、小説を読みながら、気になって仕方がないからとカバンの中にしまっていたスマホが鈍い振動音を響かせた瞬間、飛び上がってしまって、ただ手に持ったままページをめくるのすら忘れていた手が、驚きのあまり読みかけのその本を落としてしまった。  しおりを挟む前だったから、どこまで読んだかわからなくなっちゃった。 「……」  まだ鳴ってる。  カバンの中から「おーい」って呼びかけてる。  時間だよって。 「……」  初めてだ。  大好きな小説の続きどころか、どこまで読んだのかわからないほど頭に入って来なかったなんて。  生まれて初めて。 「……」  こんな切ない気持ちで過ごす夜なんて。  胸のとこ。 「……っ」  痛くて、捻れて、苦しくて、どうしょうもないほど、悲しい気持ちが溢れて、止まらなくて、眠れなそうな夜なんて。  生まれて初めてだ。

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