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第117話 歌い手
夜色に変わりゆく夏の空に、彼の歌声だけが響き渡った。
他の音は一つもない。
世界が彼の歌に耳を澄ましているみたいだった。
『君を笑わせる。それが僕の一番だ』
それは衝撃。
『君を楽しませる。それも僕の一番だ』
音のない世界でじっと目を瞑っていた。
『君を幸せにすためなら僕はなんだってするんだよ。だってそれが僕の一番大事なこと』
水の中で揺蕩っていた。
『ねぇ』
けれど、彼の声を聞いた瞬間、彼の歌を聴いた瞬間、世界に稲妻が走って、僕が漂っていた水を駆け抜けた。
『だから、君を笑わすのはきっと僕。君を泣かすのも、きっと、僕』
それは、感電。
『僕は、君のためならなんだって、するんだよ』
そして、僕は涙が溢れて止まらなかった。
『ねぇ』
あぁ、なんということだろう。
世界が止まったみたいだ。
予定にはなかった曲目。
だから、バンドの演奏者たちもただ聴くしかない。だって、この歌は誰も知らないんだ。楽譜もないよ。彼しか知らないメロディだもの。そして、彼しかこれは歌えないもの。
だってその言葉は僕が綴ったものだもの。
歌の名前は『タスク』、僕の名前。
そして、歌の中の彼は愛しい人を笑顔にしたいと歌ってる。それは彼の大事な大事な仕事なのだと歌ってる。何より優先させることなのだと、歌ってる。
「……えっと」
歌が終わり、彼がマイクに手を置いて、一つ、深呼吸をした。それすらも大音響で空に響くから、照れくさそうに笑ってる。
「本当はここで自己紹介とかしないとなんだけど、すいません」
「……」
さっき一緒に『ハル』を歌った彼女は黙っていた。黙って、和磨くんの歌を遮ることなく聞いていた。
「本当はこの一万人、とかの人に聴いてもらえないとダメなんだけど、俺は今、たった一人の人に聴かせたくて歌いました」
すんません、と謝って、頭を下げている。
「今まではたくさんの人に聴いてもらいたかった。すげぇ、難しい歌を歌って、すげぇってなりたかった。けど、今は、あんまそう思ってなくて」
ゆっくりと、ぽつりぽつりと話す声に、僕は、ぽとん、ぽとんって、涙が溢れて溺れて止まらない。
「今は、とにかく、歌が好きだなぁって。ただ歌えるだけでいいやって思って、ます。そんで、その歌をあの子が嬉しそうに、すっげぇ、マジでめちゃくちゃ嬉しそうに聴いてくれるから、もうそれでいいやって、思ってます」
嬉しいよ。嬉しくて、たまらなくて、涙が溢れてくるんだ。
「そんだけです。今日はマジでありがとうございました。そんで、明日からも、どっかで歌ってます。あの子に笑っててもらいたいんで、とっ、今は泣かせてるっぽいけど、あは」
「!」
飛び上がってしまった。だって、和磨くんが僕のいる方を見て、そんなことを言ったから。
「あとで、笑かします。今日は、ありがとうございました」
和磨くんはそこで深く、深く、頭を下げた。観客にも、彼女にも。そして、もう一度、観客に深く頭を下げてから、そのステージから見える景色を目に焼き付けるようにぐるりと見渡して、笑って手を二回振って、その場を降りていった。
その和磨くんの頭上、鉄パイプで組んだ巨大なステージの上に、手を思わず伸ばしたくなるような、澄んだ青色が広がっている。どこまでも澄み渡って、澱みのない青色。そこにキラリって小さな星が輝き初めてた。
僕は、きっと。
この景色も一生忘れないって思った。桜の空の下で彼が歌った時みたいに、僕にとっての宝物がまた一つ増えたって思った。
会場が少しずつざわつき始めた。戸惑いと、驚きと、余韻に、少しずつみんながざわついて。
「佑久くん」
「!」
「とりあえず、ここ離れよう」
「は、はい」
ついさっき和磨くんがいたステージには次のバンドの人たちの演奏のため、人が何人もそこにいた。
そして、聞こえた大音量に、また歓声が沸き起こって。その大歓声は他の音が全部聞こえなくなるほどの大きさだった。
僕らはその音に背中を押されるようにその場を立ち去って。
「あいつ、なんか、スケジュールと違うことやったっぽいね」
「あ、あの、あの歌」
「私、初めて聴いた。もしかしてオリジナル?」
僕と若葉さんが足早に観客席エリアを離れて、そのまま、きっと多分和磨くんのいたテントの方に向かってる。けれど、続々と観客エリアに人が集まってきていて、まるで僕らは濁流に逆らう魚みたいに、中々、先に進めずにいた。
「ちょ、気をつけて。ラスト、のライブだから人が、すごっ」
「は、はいっ」
上手く人にぶつからないように、でも、和磨くんのとこ、行きたい。きっとこのあと、打ち上げとかあるよね。忙しいだろうし。大学祭の時もそうだった。ライブ終わった後は人がたくさんだった。今度の打ち上げは僕は到底参加できそうにないから、今、会わないと、もう、またしばらくはきっと会えない。彼女も会わせてくれないだろうし、それに、もっと忙しくなっちゃうんだろうから、だから。
「佑久さん!」
だから――。
「こっち」
ぐいって、引っ張ってくれた。
「……ぁ」
「ごめん。まだちょっと用事がある」
和磨くんだ。
「うん。大丈夫。僕」
「待ってて」
手を繋いでくれて、その、僕の手に。
「これ、俺んちの鍵」
「え、あのっ」
「部屋で待ってて」
「でもっ」
「今日のライブでサポートとかしてくれた人に全部挨拶終わったら、俺も帰るから」
おでこ、こつん、ってしてくれた。
「待ってて」
伝わりますように。
君が好きって、伝わりますように。
「うん。待ってる」
僕は笑ってしまった。
嬉しいのと、懐かしくて。まだ、あれは梅雨の前のことですごく最近のことなのに。ほら、あったでしょう? 大学祭の時。門の前で僕らは少し話していて、みんな、周りがどんどん大学の中に入っていくのに、僕らだけそこに立ち止まって。川の流れに逆らう石みたいに。
最近のことなのに、すごくすごく前のことみたい。懐かしいくらい。
「佑久さん?」
「ううん。あのね」
それだけ濃密な時間だった。
「大学祭の時のこと思い出したんだ」
「あぁ、あの時」
濃密で、ワクワクもドキドキも味わえて。
「うん」
「……」
「待ってます」
こんな時間。
「待ってるね」
君とだから過ごせたんだって思った。
「あの、若葉さん、ありがとうございます」
「んー?」
「今日も色々」
「いいよー。私は素敵なものたくさん見せてもらったもん。むしろ、ありがとうだよー」
行きは着替えるために後部座席にいた僕は、帰り道、助手席に座って、真っ暗になった夜空を見上げた。
「よかったねー」
「はい」
「楽しかったぁ」
「はい」
「また、遊ぼうね」
「はい」
「今度は三人で」
「はいっ」
行きはすごく慌ててて、車の中で着替えたり、すごく忙しかったけれど。
「にしても、あいつ、髪伸びてたなぁ」
「はい」
「またお店来るように言っておいて」
「はい」
「ったく。ほっとくとすぐ伸びる」
「でも」
「?」
「かっこよかったです」
「あはは」
帰りはのんびりしていて。
「ふふっ」
全然違う、帰り道に、僕はずっと笑っていた。
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