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第123話 梅雨が明けた。青空だ。

 和磨くんは覚えてないかもしれない。  他愛のない会話の中で、本当にさりげなく出た話題の一つ、っていうだけだったから。  大学祭の後だった、僕が文芸サークルの様子を話していたら、小説書けばいいのにって。僕には文才なんてないよって、作文レベルですって言って。ちょっと笑って、待ってても一生出ないよって、僕の本はって、言ったら。  君が言ったんだ。  ――じゃあ、一生待ってるし。  って。  そう言った。  あの時、気軽に言ったのだろう「一生」というその言葉に僕は一人でとてもドキドキしていたんだ。まるでその言葉一つだけカギ括弧がついているみたいに。アンダーラインでも引かれているみたいに、とても耳に残って、僕はすごく意識してしまって。  もしかしたら一人で真っ赤になっていたかもしれない。  今でも、あの時のドキドキを覚えてる。  君は何気なく言った一言かもしれないけれど。  だからね。  ――一緒に住もうよ。  そう言ってもらえたさっきもすごくすごく、嬉しくて、同じように僕の中でカギ括弧がついている。  同じようにアンダーラインが引かれてる。  胸がときめくってこういうことなんだと思った。  小説を読んでいるとたまに出てくるフレーズだけれど、それを僕は、まぁきっとこんな感じなのだろうと思っていた。  辞書を引けば意味は出てくる。  どんな気持ちなのかはなんとなくで想像はできる。  けれど。  それを確かに感じたことはなかったんだ。君と繋がり合いながら、さっきそう言われるまではわからなかったけれど。  ――ずっと一緒にいたいんだ。  きっと、ときめくとはこういう感じなんだ。  ――佑久さん。  きっと、こういう感じ。  僕はどうしようと戸惑ってしまうほど嬉しくてたまらなかったんだ。でも……。 「あ……すごい」  今日、和磨くんはSNSをお休みしてる。それがまたなんというか、そわそわさせちゃうんだと思う。ファンの中で、今日、あのライブに来ていた人がたくさんいて、たくさん呟いてる。  感動して泣いたって言ってる。  一生忘れないって言ってる。  オオカミサンのオリジナル、初めて聴いた。すごい最高って。  やばいって、言ってる。 「……」  たくさんの人が感動、してる。でも――。 「たーすくさん」 「……」 「風呂沸いたよ」 「……」  でも、もう。  彼は。 「……和磨くん、あの」 「?」 「あの、ね」  それはやっぱりもったいないんじゃないかな。  ねぇ、ほら。 「どうしかした? …………」  ベッドで君に身体を冷やさないようにと、タオルケットでぐるぐるに包んでもらったその中で、スマホを見てた。和磨くんがそんな僕の背後から、抱き締めるように、僕の肩に顎を乗せて。ちょうど君にもこれなら見えるだろうからと、スマホを少し傾けて見せてあげた。  僕が見せたその画面をじっと見つめてる。  画面に写っているのは、今日のオオカミサンのライブを称えるたくさんの言葉。たくさんの声。  もっと聴きたいって言ってるよ。  こんなにたくさんの人が素敵だったって言ってるよ。  だから、やっぱり、あのね。 「さっきも言ったけどさ。すげぇステージだったよ」  うん。そう思う。僕はそのサイリウムの一つとして君を見上げる側で。 「プロになったらこんな場所にいられるんだって思った」 「……」 「けど、やっぱ、そこからじゃ見えにくいんだ。佑久さんの顔」 「でもっ」 「歌うのはやめないから」  本当? 「今までみたいに動画で配信もするし」  本当に? 「プロの歌手は今は無理」 「……」 「大学行って、歌手やって、佑久さんとデートするのは流石に睡眠不足になるじゃん。そしたら歌がろくに歌えない」 「だから、その、僕のことは」 「はぁぁぁぁ?」 「!」  すごい、ものすごい溜め息のような、怒っているような。僕はタオルケットごと包み込んで抱き締めてくれるその腕の中で、ぎゅっと、一瞬身体を縮こまらせた。 「寝不足よりも深刻だから」 「……」 「佑久さん不足は、俺の中で」  和磨くんが真っ直ぐに僕だけを見つめながら、僕の視界にも和磨くん以外が映ることのないように、一番近く、睫毛さえも触れ合ってしまいそうな、吐息が唇に触れてくすぐったいくらいに近くで、僕のことを覗き込んだ。 「プロの歌手なら大学卒業してからでもできるでしょ」 「でもっ、こんなチャンス」 「もし大学卒業した時点でそのチャンスがないんなら、俺は今歌手になったって、大したものにはなれないし」 「!」 「歌を歌うのは、動画でもなんでもできる。今までみたいに。そんで今までの自分の活動で物足りなかったことなんてないよ。んで、大学も親の金で入れてもらったんだ。あとで返すとしたって、今、中途半端にするのはダメでしょ。そんで、これが一番だからさ」  コツンって、君がおでこにおでこをくっつけた。  君は何かとても伝えたいことがある時、これをする。このくっついたところから全てが伝わるように願うように、目を閉じて、大事に言葉を紡ぐ。 「佑久さんと離れたくない」  大事に大事に、言葉をくれる。 「図書館の早番の時にはデートしたいし。カラオケも行きたい。また映画も一緒に見たいし。今、やってるホラー映画、めちゃくちゃ一緒に観たい。すげぇ怖いんだって。それから、一緒に飯作って、食べて、皿洗って、風呂入って、抱き合いたい」 「……」 「けど、それだけじゃ足りないくらいに佑久さんが好きだから一緒に暮らしたい。ここでもいいし、佑久さんちでもいいし。なんなら新しく借りてもいいし。なんでもいいから」 「……」 「もっと一緒にいたい」  大事に大事に、僕を抱えながら、おでこをくっつけて、君の気持ちをくれる。 「そんで、また歌うから」 「……」 「聴いててよ」 「うん」  こうしてると、くっついてると、触れていると、全部伝わって、僕は泣きそうになってしまうんだ。嬉しくて、幸せで泣きそうになるんだ。  泣くのは悲しい時だとばかり思っていたけれど。 「全部、僕も」  嬉しい時もこんなに涙が溢れるのだと、初めて知った。 「和磨くんと一緒にしたいです」  君が教えてくれた、僕の初めての一つがまた、増えた。 「ぜーんぶ、したいです」  その日の翌朝、屋外ライブでオリジナルを歌ったオオカミサンへの賞賛の声がたくさん届く中、そのオオカミサンが一つの写真と一緒に一言を呟いた。 『ハムサンド、めちゃくちゃうめぇ。今日はベランダで屋外ライブしとこ』  梅雨が明けた。  青空だった。  ベランダで食べたハムサンドはとても美味しかった。

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