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第129話 ただいま、二つ、おかえり、二つ
仕事先である図書館からの通勤時間が短くなった。電車に乗ってる時間もだし、住んでいるところから駅までの歩く時間も。
あとスーパーも近くなった。
それからこれはここで一緒に過ごすようになって気がついたことだけど、駅近くのパン屋、マンションから駅までの道ではないのだけれど、その道から曲がったところにある小さなパン屋さん。そこが通勤通学の人が通る朝早くから開いていて、とても便利なこと。安いのに美味しくて、お昼に食べるのにとても便利。
それから、他にもたくさん。
ここが「うち」になって、毎日が、嬉しい。
「あ、僕、鍵、開ける」
楽しい。
「待って、て」
和磨くんが玄関ドアの鍵を開けてしまわないように大急ぎでドアの前を陣取っちゃった。和磨くんを待たせないように、カバンの内側にある小さなポケットから鍵を取り出した。
僕用の鍵はまだピカピカだ。
「ただいまぁ」
「た、だいま」
ちょっとつっかえてしまった。
「っぷは」
和磨くんがマスクをようやく外して、嬉しそうに笑ってる。
まだ本当に些細なことにも嬉しくなってしまうんだ。コップに並んで入っている歯ブラシにも、玄関に並ぶ二足の靴と、ちょっと買い物に行く時とかに、今の夏の時期ならちょうどいいサンダルも。どれも二人分、なことに。
マグカップも。
僕らはそんな些細なことにも嬉しくなる。
いつも鍵を開けてもらうのを半歩後ろで待っていた。けれど今は率先して僕から玄関を開けられる。
通勤用の定期の期間が変わったのも、住所変更の手続き書類を書くのも全部楽しい。
けれど。
「ふふ」
一番楽しくて、嬉しいのは。
「ただいま」の挨拶と「お邪魔します」の挨拶一つずつだったのが「おかえり」が二つになったこと。
「あ、そうだ、牛乳買うの忘れた」
「あ!」
「ね、俺もすっげぇ完全に忘れてた。明日買い物の時に」
「あ、うん。覚えとく」
「風呂沸かすよー」
「あ、はいっ」
こういう会話もすごくすごく楽しい。
買い物リストを考えたり、お風呂を沸かしたり、夜用のお米を研いで炊飯の予約をしてみたり。そんな普通に過ごすのもすごく楽しい。
「なんか飲む? 佑久さん」
「ぁ、平気」
「水、飲みなよ。けっこう酔ってる」
和磨くんは新しく部屋を借りればいいのにって言ってたけれど、僕は早く、一緒にいたかったんだ。
「ほら、すげぇ体温高いじゃん」
言いながら、僕の頬を撫でてくれる。こうして、気軽に、いつだって手が届く、それが待ち遠しくて仕方なかった。
なんなら僕は部屋の隅っこにでも置いてくれたらいいからってお願いしたくらい。
一緒の場所に帰りたくて。
一緒の場所で眠りたくて。
そしたら、どんなに日々のスピードが違っていても大丈夫でしょう? 一日の終わりのところがここで、一緒ならきっともう不安にならない。こうして手を少し伸ばしたら君がいる。いなくても二つ並んだ枕に、二本一緒に置いてある歯ブラシに、マグカップに、二人だからすぐに無くなっちゃう牛乳に。僕らは、互いがそばにいるって嬉しくなれる。
だから、少しでも早く、一緒のところに帰りたかったんだ。
「あー、そんで、佑久さん」
「? はい」
僕は君の大ファンでもあるから、歴はまだまだだけれど。あの昔からのファンの彼女には全然、足元にも及ばないけれど。でもね、だから、君のこと、「オオカミサン」のことすごく応援しているんだ。
歌、歌ってほしい。
歌、聴きたい。
ここで、ずっと。
「おかえり」
「!」
和磨くんはプロアーティストじゃなくて、ただシンプルに歌を歌う人、を選んだ。
それでもすごくすごく有名人だから、外に出る時はマスクしないといけなくなったんだ。ちょっと前に、大学の帰り、すごく蒸し暑くて、湿度に負けてマスクをせずに帰ろうとしたところでファンの子に見つかってしまってとても大変だったって。それからはマスク必須。
だからね、和磨くんがこうして笑ってくれるのを見られるのが僕にとってはとても特別で。
笑いながら、嬉しそうにそう言ってくれると舞い上がってしまうんだ。
ただ「おかえり」って言っただけなのにとても嬉しそうにしてくれるんだ。
前まではなかった挨拶。
「和磨くんも、おかえりなさい」
そして、僕も嬉しい。
「ふふ」
「佑久さん」
「はい」
「ね……」
君に「おかえり」を言えることが。
「あんま、ただおかえり言うだけでそんな可愛い顔して笑わないでよ」
「えぇ?」
「まだ風呂、沸いてないのに、我慢できなくなるじゃん」
「ふふ」
同じお家に帰るのが、お互いにとてもとても嬉しくてご機嫌になれるんだ。
「早く鳴るといいね」
「あれね」
そこで、僕は大笑いしてしまった。
「ふふっ、あはは」
だって君が僕を抱き締めながら、とても良い声で、この間、歌った配信の切ないバラードを歌った時と同じ、掠れた優しい声でまだあとちょっと時間がかかるけれど、あと二十分くらいしたら聞こえるあの、お風呂が沸いた時に流れるメロディを口ずさんだから。
おかしくて、嬉しくて。
「早く風呂入って、スッキリして、そんで佑久さん抱き締めたい」
僕はぎゅっと和磨くんの背中にしがみついた。
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