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メリークリスマス編 7 ぴょん

 本当に以前の僕が見たらきっととても驚くに違いない。 「ソソソソ、ミ……レ」  ピアノなんて弾いたことないのに。右手と左手を別々に動かすなんて、不器用な僕にできるわけないのに。 「ド」  頑張ってみたいと思うんだ。  君が喜んでくれるかもしれないというだけで。 「あれ? 佑久さんだ」 「! ぁ、市木崎、くん」  大学の校門前、垣根のところにちょこんと座らせてもらいながら、膝の上に架空の鍵盤をイメージして、指を動かす練習をしてたところだった。  口に出しながら練習してる格好悪いところを、とってもかっこいい人に見られてしまったと慌てて、その手を引っ込めた。  恥ずかしい。  変な人みたいだよね。  何かぶつぶつ呟きながら、膝の上でピアノ弾いてるとか。 「これから和磨とデート?」 「あ、うん。あの、デートって言っても、ちょっと本屋さん行こうってだけで」 「でも、あいつ、今日一日ご機嫌だったよ?」  わ。そうなんだ。  なんだか、ちょっと嬉しい。  今日、僕は早番で、帰りがきっと和磨くんよりも早いからお夕飯の買い物しておくねって朝、話してた。それで、ちょっとだけ寄り道していいですか? って、話して。  そしたら一緒に本屋さん行きたいって。  和磨くんが。  だから迎えに来てしまった。  驚くかなぁって思って。  デート、ただ本屋さん行くだけだけど。  よかった。  ご機嫌だったのなら。 「佑久さん」 「?」 「さっき何やってたの?」 「へっ? あっ、ひぇえっ」  こんなこと、してたでしょう? って、空中で市木崎くんが指先をパタパタと揺らして踊らせた。 「あ、あのっ、それはっ」 「すっごい一生懸命だった。ピアノ?」 「あっ……え、と…………はい。今、ちょっと、練習してて、あ! 和磨くんには内緒に、してもらえますか? あのっ、ちょっと驚かせたくて」 「…………クリスマスプレゼント?」 「!」  当てられてしまった。  きっと僕は真っ赤になってしまったと思う。コクンと頷いて、唇をキュッと結んだ。 「もちろん内緒にするよ。ラッキー」 「?」  顔を上げると、僕よりずっと背の高い、スラリとした市木崎くんがとても珍しく子どもみたいに笑って見せた。にーって、笑った顔。 「俺と佑久さんの秘密」 「!」 「クリスマスまでの限定だけど」 「あ、あのっ」 「佑久!」  和磨くんの声は、よく通る。冬の清々しいほど透明な空へと、綺麗に響いてく。 「あ、お疲れ、和磨」 「あ、あの、お疲れ様、です」 「ごめ、佑久」  ううん。そう首を横に振った。 「教授に提出した?」 「したした。サンキュー」 「いや、いいよ。そんじゃ、俺はちょっと資料室寄るから」 「帰んないの?」 「まだね」 「あ、あぁ。そっか」  あれ? でも、市木崎くんも帰るのかと思った。じゃないと、ここまで来る理由なんてないでしょう? ここに来て、何か用事があったわけでもなさそうだった。何もせずに僕と話をしていただけ。 「じゃあな」 「おー」  あ。 「佑久さんも、バイバイ」 「あ、う、うんっ、バイバイ」  シー、ってして、市木崎くんが笑った。  さっきの、クリスマスまでの限定の「秘密」のことだ。 「? 何?」  その仕草の意味がわからなくて、和磨くんが首を傾げると市木崎くんがもっと笑って、なんでもないよって。 「頑張って。佑久さん」 「? なに? 何の話?」 「なんでもないよ。仕事頑張ってってこと」  もしかして、気を使ってくれたのかもしれない。和磨くんがご機嫌だったのを見て、早く帰らないとってしている様子を見て。  僕が来ているかもしれないって。前に、僕が学生だと間違われて、話しかけられてるのを思い出して、なんというか、僕が人気者とかそういうわけじゃ決してないけれど、僕のこと守ってくれようとしていたというか。和磨君が来るまでのフォローというか。 「が、頑張ります!」  優しい人だ。  すごくすごく優しい人。  僕の大事な友人の一人って思っている。  そんな彼に大きく手を振った。 「あいつ、なんだったんだ?」 「優しい人です」 「! 俺も優しいからっ」 「……っぷ、うん。知ってる」  思わず、じっと和磨君の顔を見て、慌ててそんなことを主張する姿を見て、笑ってしまった。  たくさん、驚くだろうな。 「佑久、今朝、この前収録した動画アップしたんだ」 「え? そうなの?」 「……あー、いや、なんつうか、いや……」 「見ます!」 「あー、うん」  夢中になれるのは本だけ。  楽しみは本だけ。  だったけれど。  今は好きな音楽がある。  頑張りたいことがある。  気遣ってくれる友達がいて、僕を手助けをしてくれる同僚がいて。 「いや、無理に見なくていいから」 「見ます!」  楽しいことがたくさん増えた。  夢中になれることも増えた。  どんどん僕の世界が広がっていくような感じ。本の中で味わうだけだった色々なものを今、僕は実際に触れて、感じて、味わって堪能している。 「ふふ」  今の僕を、以前の僕が見たら、腰を抜かして驚いてしまうに違いない。  帰ったら「オオカミサン」の動画を見る、その、また一つ増えた楽しみに、ぴょん、って跳ねて歩く今の僕に、きっととても驚くだろう。

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