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メリークリスマス編 14 君へ
ちゃんと弾けるかな。
大丈夫。
たくさん練習したもの。
下手だけれど。
気持ちだけなら溢れるくらいに詰め込むから。どうか、どうか届きますように。
――短期レッスンで、この曲を? ですか?
ピアノの先生にはちょっと申し訳なかったな。大変そうだったから。ど素人の初心者で、とっても不器用な人相手だもの。練習曲も全て飛ばして、いきなり、演奏できるようにしてほしいなんて言われたのだから。
――は、はい。あの、この曲だけでいいんです。
――うーん、けっこう難しいですよ?
どうしても弾きたかったんだ。
君にはいつも感動をたくさんもらっているから、ちょっとでいいからお返ししたいんだ。
君の歌で僕はたくさんの冒険ができるようになった。感動だけじゃなくて勇気だってもらえた。
だから、今度は僕が君にプレゼントしたい。
――頑張りますっ。
「ソソソソ、ミ、レ」
もう、あと一分で僕の退勤時間。
一つ深呼吸をして、貸し出し棚の整理を終えたら、あとゼロ分になった。
小説エリアのあるフロアから階段を降りて、スタッフ用の扉を開けたところで、太ももを鍵盤代わりにして演奏の練習をした。
帰ろう。
和磨くんといつものあの場所で待ち合わせだ。
待たせてしまったら申し訳ないもの。
去年のクリスマス、僕は本を読んでいた。あの頃なら、多分、見つけた新人のミステリー作家の本を慌てたように読み漁っていた頃だった。お正月に凛花ちゃんもいるだろう親戚の集まりに出るのがとても億劫だったのを覚えてる。本が読みたいのにって。クリスマスでも、いつでも、僕は本があればよかったんだ。
けれど、今の僕はちょっと違う。
「あ、椎奈くん、お疲れ様ー」
「近藤さん、お疲れ様」
「明日、お休みだねぇ。メリークリスマス」
図書館には、楽しい同僚がいる。
「メリークリスマス」
「バイバーイ」
「さようなら」
読み聞かせの楽しさを教えてくれた大事な同僚。
「わ……市木崎くんだ」
――メリークリスマス。和磨が今日から冬休みだって、はしゃいですごかったよ。
「ふふ……市木崎くんも、冬、休み、だね。メリークリスマス……送信」
とても素敵な友だちがいる。優しくて、気遣いがすごくできる人で、僕もこんなふうになりたいなって思うんだ。僕のほうが年上なのにね。
「あ、若葉さんも、メッセージくれたんだ」
とっても素敵で、ユニークで愛らしい本の虫仲間もいるんだ。僕に、僕のことを好きになるお手伝いをしてくれる人。
「オオカミサンのアカウントにメッセージいっぱい……」
同じオオカミサン大好きな子もいるんだ。仲良く……はあまりしてもらえないけれど、僕にとっては同志で先輩だ。
そして――。
「たーすく」
「!」
僕には大が百個、二百個、千個くらいついちゃう大好きな人がいる。
「和磨くん、お疲れ様です」
「俺はぜーんぜんっ」
僕の好きな人。
その君がにっこりと笑ったら、真っ白な吐息がふわりと僕らの間に浮かび上がって、夜空にそのまま溶けていった。
「市木崎くんと若葉さんがメリークリスマスって」
「うん」
「冬休みだってはしゃいでたって」
「そりゃ」
僕はニコッと笑った。
「じゃあ、行こうか」
「はーい」
ちょっとドキドキしてる。
ソソソソ。
「お腹空いてない? 和磨くん」
「平気ー」
ミ、レ。
「もう行く?」
「あ、うん。いい、ですか?」
「もちろんっ」
ちゃんと弾けるかな。
弾けますように。
「あの、ここからそう遠くないところなんです」
「はい」
ふと、帰り道で見つけたチラシを頼りに。
「ここ、です」
「…………ピアノ?」
「うん」
この扉を開けた。
心臓破裂しそうだったよ。こんなこと挑戦したことないもの。
「あ、すみません。椎奈です。今日は」
そこまで言うとこの短期間で僕の名前を覚えてくださった受付のスタッフさんが無表情のまま、いつも僕がレッスンを受ける教室番号のついた鍵を手渡してくれた。
ちらりと横を伺うと、とても不思議そうにしてる。不思議、だよね。ピアノ教室に連れてこられてなんだろうって思うよね。
「こっち、和磨くん」
僕がね、弾くんだ。
「こちら、です。プレゼント」
「……」
「えっと、そこに座ってもらっても、いいですか?」
いつもは先生が座るところに和磨くんを案内した。
「どうぞ」
そちらにお座りくださいって、手招いて。
一つ、深呼吸。
それから。
まずは手を、指を揉む。
揉む。
揉む揉む、揉む。
それからぎゅっと握って。
パッと広げて。
「それ……」
うん。前に見られてしまった指の体操。
「ピアノ、弾く前の準備体操なんだけど。いつもやってるから、おまじないみたいになっちゃってて」
いつもの練習のとおり。
いつものとおり。
辿々しいながらにも弾けるようにはなったんだよ? 君へ、僕からのクリスマスプレゼント。
「聴いて、ください」
こんなに緊張するんだね。
なんてことだろう。ちょっと口を開けただけで心臓が飛び出してしまいそうになるよ。
お客さんはたったの一人なのに。
君にしか届けないのに。
こんなに緊張するのなら、あのステージはどんななのだろう。何千、っていう視線を向けられた中であんなに伸びやかに歌えるのはなんてすごいことなのだろう。
「タスク」
たった一人、君に聴いて欲しいんだ。僕の音を、そう思いながら、そっと、深呼吸をして、そっと、指先を白い鍵盤の上に置いた。
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