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メリークリスマス編 15 届け

 鍵盤の、金属やプラスチックとは違う指感触。  優しくて、真っ直ぐで、滑らかで、けれど、指に吸い付くような感じ。触れた瞬間、全身がキュッとした。  緊張するけれど。  君はいつも楽しそうに、朗らかに歌うなぁと、思い出した。  君の歌う時の表情を思い浮かべて、白と黒の鍵盤を見つめた。  上手じゃないでしょう?  ちっともなんだ。  先生がお手本で弾いてくれると、とても綺麗で、とても素敵な曲なのに。  僕が弾くと、どこかで音がつっかえて、コロンコロンって転んでしまいそうな不安定さがあるでしょう?  でも、たくさん練習したんだよ?  君を驚かせたくて、図書館の早番が終わると大急ぎで、走ってピアノ教室に通ったんだ。  僕の任務は君に気が付かれることなく、ピアノの練習をすること。クリスマスに君を驚かせるために着々と、粛々と準備をしていたんだ。  僕はいつも君にもらってばかりだから。  ありがとう。  感動を。  楽しみも、幸運も、喜びも、それから幸せも。  僕にたくさんくれて。  ――君を笑わせる。それが僕の一番だ。 「!」  ピアノの音に重なるように、君の歌声が響いた。  ――君を楽しませる。それも僕の一番だ。  君が歌ってくれた。  なんてことだろう。オオカミサンのあの素敵な歌声がまるで寄り添うように僕のピアノを伴奏にして歌ってくれる。  ――君を幸せにするためなら僕はなんだってするんだよ。だってそれが僕の。  ピアノの音が変わっていく。  君の声に支えられて、さっきまで不安そうに心細そうに響いていた音がしっかりとこの部屋で響き始める。  ほら、指先も力強く、君の歌声の力を借りて、しっかりと鍵盤の上を弾き始める。  ――一番大事なこと。  辿々しかったピアノの音が演奏に変わっていく。  ――……ねぇ。  音楽になった。  そんな気がした。  ひとりぼっちでは困っているような、迷子のようだった僕のピアノの音が確かに変わって、音が響き始めてくれる。  夢中になって弾いていた。  だって、辿々しくても、まるで手を繋ぐように君の歌声が僕を支えてくれたから。  ピアノの音ってとても素敵なんだ。  君の歌声はとっても素敵なんだ。  音楽って、とても――。 「すげ……」  楽しいんだ。 「あーもおっ」  曲が終わると、和磨くんがそうぼやくように呟いた。  どうだったかな。  大丈夫だったかな。  きっと和磨くんが今まで聴いたピアノ演奏の中で一番拙かっただろう。  一つ、深呼吸をしよう。  心臓が飛び跳ねてしまっているから。まるで徒競走でもした後みたい。 「…………あのっ」  声をどうにかして発すると、自分でも驚くくらいに震えていた。これは高揚感だ。緊張の混ざった、感じたことのない高揚感。 「いつも」  ほら、すごく震えている。  声だけじゃなく指先は痺れてるし、全身でドキドキしてる。 「和磨くんにたくさん感動をもらってるから」  すごいね。  こんな、なんだ。  いつも和磨くんはこんな高揚感を味わってるんだ。 「僕の演奏じゃ、とても、拙いけれど。和磨くんならきっと、喜んでくれるかなって」  僕の世界が君に出会ってどれだけ広がったのか、きっと知っていてくれるでしょう? 君の歌にどれだけのものをもらえたのか、僕は、一生懸命伝えてきたから、だから、ね、きっと君には伝わると思う。 「ありがとう」  本の虫はたくさんの言葉を知っているんだ。むしろ、言葉の中でだけ過ごしてきた。そんな僕の言葉にならない気持ちはきっとちゃんと伝わってる。 「…………ヤバ」  そう呟いて、和磨くんがまるで腰を抜かしたみたいにその場にしゃがみ込んだ。そして、両手を合わせて、自分の口元を隠すようにして、その合わせた手の中へ吐息をこぼした。 「泣きそ……」  それは、大変なことだ。あの野外ステージでも、昨日のクリスマスライブでも、泣いたりしなかった君を泣かせてしまえるなんて。 「ふふ」  僕ってば、すごいな。 「あの、ね、一生懸命練習したんだ」 「っ」  君を泣かせてしまうなんて。  ちょっと、嬉しくて、まだピアノに触れてるような気がする指先をぎゅっと自分で握りながら、和磨くんの目の前に同じようにしゃがみ込んだ。 「ピアノの先生、すごく大変そうだった。困った顔させちゃったし。でも、どうしても、この曲を、この曲だけでいいから弾きたくて、なんでもしますって言ってお願いしたんだよ」 「っ」 「なんとか、弾けた」  絶対に弾きたいって思ったけれど、最初はどうなることかと思ったよ。ピアノなんて弾いたことないもの。不器用な僕の指先は本当にぎこちなくて、これは……と先生が頭を抱えてしまうほどだった。 「すげ」 「……」 「最高だった」  嬉しいな。 「メリークリスマス、和磨くん」  そしても僕も嬉しいから。 「どう、ですか? 僕からのクリスマスプレゼント」 「マジで、最高」  そう言ってもらえてたまらなく嬉しくて、にっこりと笑うと、和磨くんも笑ってくれて。 「よかった。最高って言ってもらえちゃった」  僕らは笑いながら、しゃがみ込んだまま、ピアノの足元でキスをした。優しくて、あったかくて、柔らかいそのキスに、ピアノを弾けたとホッとしている僕の指先がじんわりと熱くなった。

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