152 / 167

救世主現る編 1 救世主よ。

 逃げなくちゃ。 「えっと……」  離れなくちゃ。 「っ」  近くにいちゃいけないんだ。僕は、もう。 「はぁっ、はぁっ」  君から離れなくちゃ――。 「椎奈くん、大丈夫?」 「……え?」  ちょっと、ぼーっとしてしまっていた。  突然、声をかけられて、貸出コーナーのカウンターから顔を上げると、急に頭がぐらりと揺れて、ちょっと驚いてしまう。 「なんか、顔、真っ赤だよ?」 「え? あ……」  そう、言われてみれば、頬が熱いかも。自分の頬に触ってみると、心なしか温かいを通り越して熱いような気がする。 「熱あるんじゃない?」  そう、なのかな。確かに、クラクラはしていたけれど。 「私、カウンター替わってあげる。控え室に体温計あるから測っておいでよ」 「でも」 「風邪引いてるのにカウンターで接客してたら、風邪移しちゃうかもしれないよー」 「!」  言われてみればそうだ。僕はよくても、ただ本の事を訊きに来ただけで、風邪を移されてしまったら迷惑だろう。 「ご、ごめん。行ってくるね」 「うんうん。気をつけて」  立ち上がると余計にぐらりと頭が揺れる。というよりも、頭の中心部分からおでこの辺りにかけて、怖い顔をしてしまうくらいに痛みが走って。 「ッ」  思わず頭を押さえながら、階段をのろりのろりと上った。 「はぁ、はぁ」  図書館で熱を測ったのが三時間くらい前のこと。  びっくりした。  熱、測ったら、三十八度もあったんだ。  こんなんで接客なんてしちゃ、もう絶対にダメでしょ。その場で早退することが即決定。僕は、痛んでひどい頭にずっとしかめっ面をしながら、お辞儀だけして帰ってきた。  和磨くんと今日はお外ご飯をしようと話をしていた。またカラオケ行ってくれるって言ってたのになぁ。  惜しいことをしてしまった。  ――今日は、ごめんなさい。体調が悪いのでお仕事早退します。お夕飯をお外でするのも、また今度、お願いします。  そうメッセージだけ、電車の中で、ちょっとでも揺れると痛んでしかたない頭に、翻弄されながら、送信しておいて、どうにか帰宅した。  あぁ、残念だ。  風邪、引いちゃった、なんて。  なんてことだ。  最近、梅雨入りしたばかりで天気が不安定なこともあって、日毎に気温が違ってるせいもあるのかもしれない。  一昨日は肌寒かったのに、昨日は汗ばんでしまうくらいに暑くて。そして、今日は、雨が朝からシトシト降り続いてる。その気温差が激しいせいで体調を崩したのかもしれない。  あと、今日の雨のおかげで湿気が高くて。そのせいか、なんだか髪もちゃんとフワフワにならなくて。何度も髪を濡らしてはブローし直したりして。それでも結局、不器用な僕はちっとも素敵にセットできなかったけれど。それも原因の一つかもしれない。頭を濡らすと冷えて風邪を引きやすくなるって、前に読んだことがある。 「はぁ……」  頭、痛い……なぁ。 「……」  昔から、表情を作るのが下手だった僕は、体調が悪い時もよく誤解されたっけ。  もちろん、熱っぽいです、ダルいですって主張できるようなタイプじゃなかった。けれど、表情でそれを伝えるのも上手じゃなかった。  いつも、何? 機嫌が悪いの? と言われたり、学校でも、何か不満でもあるのか? と、確かめられたりしてた。ただ具合が悪いだけなのに。ただ体調が良くなくて、頭が痛いだけなのに。  あ……そういえば、さっき、近藤さんは気がついてくれたな。 「……っ」  ちょっと限界かもしれない。  少し横になっていた方が良さそう。  早く治さないと。和磨くんに迷惑かけちゃう。 「はぁっ」  頭も痛いけれど、なんだか背中も痛くなってきた。とにかくだるくて仕方がないし。  だから、ズルズルとその場にうずくまって目を瞑る。  こういう時はスポーツ飲料がいいんだって。熱が高くなると発汗が始まるから、その補給のためにも。  お腹は空いてないから、いいや。  薬はさっき飲んだんだ。その時に、買っておいたロールパンを一つ、どうにかしてお腹に押し込んだ。お腹の中が空っぽで薬を飲むのはよくないから。  あとは。 「っ」  あとは、大丈夫かな。  初夏の時期でよかった。これが真冬だったら、毛布一枚じゃ寒くて凍えてしまう。とりあえず、この物置スペースで体調が戻るのを待とう。  寝室でなんて眠れないよ。ベッドは一つしかないもの。そっか、こういう時にちょっと困ってしまうんだ。体調の良い日ばかりじゃないことを失念していた。  もう一つ、ベッド買おうかな。  けれど、同じ寝室で寝ていたら結局移してしまうよね? じゃあ、やっぱりこれが最善策だ――。 「佑久!」  え? 和磨くんの声? 「佑久、どこにっ……は?」  どうしよう。帰って来ちゃった。  逃げなくちゃ。  離れなくちゃ。  近くにいてはいけないんだ。 「なんで、ベッドにいないじゃん」  うん。だから今日は僕はそこでは寝ません。すみません。君に風邪を移してしまったら大変だもの。だから、今夜は――。 「は? ここにいた。なんで、こんなとこにっ」 「……ぁ」 「かくれんぼ? っていうか、ベッドで寝てよ」  いや、そういうわけには。 「ったく」  わ。ダメ、です。 「どうせ、俺のこと考えてなんでしょ」  だって、風邪、移っちゃうもの。 「すっげぇ、熱高いじゃん」  うん。三十八度あります。和磨くんが僕の額に触れて驚いてる。 「とりあえず、運ぶから」  ダメ、だよ。ベッドは君が寝てください。僕は風邪菌をたくさん持っているので物置スペースに篭ります。 「スポドリに毛布って……あのね」  ダメ、ダメ。そう思うけれど、僕の異様に熱い身体は、いつもどおりに温かい和磨くんの手に支えられてとてもホッと、落ち着けた。  あ、この前、読み終えた本に出てきた救世主みたいだよ。  世界を襲う恐ろしい出来事たち全てから、一瞬で、主人公たちを救い出してくれるんだ。小さな子どもも仲間にいた彼らは身を隠しているしかなくて。息を潜んで、災難が立ち去るのを待っていた。早く早くいなくなれ、通り過ぎろって。そして突然、隠れていた部屋の扉が開いて。あぁ、もうダメだ、と主人公が諦めそうになったけれど。  ――大丈夫か?  そう声をかけてくれた救世主。  まるで君はそれのようで、僕は思わず。 「っ」  抱き付いてしまった。  だって、和磨くんの温かさは。毛布よりも、スポーツドリンクよりも、何よりも僕のことを元気にしてくれそうな気がした。

ともだちにシェアしよう!