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第一章 2

 今の今まで人の気配もしなかった。  その男は突然現れたように思えた。  背は高く、細身。薄茶のシャツを着て、黒の乗馬用のズボンを穿いている。ポケットのたくさんあるハーフエプロンを着けている。  園芸用の鋏などが入っているところから、その男は、ここの薔薇を世話する者であるということがわかった。    アッシュグレイの髪は肩を越え、項で結ばれている。左の前髪だけが長く、左目も頬までも隠している。  見えている右側だけでも、相当な美形であると思われた。  ただの庭師とは思えない程の。 「いえ……あの……ちょっと棘が……」  突然現れたことと、その雰囲気に圧倒され、しどろもどろになってしまう。 「うちの薔薇がおいたをしたようですね。どうぞこちらへ」  顔を門のほうへ向け、二人を促す。  たいしたことはない。本来なら断るべきたが、美雪も美華も何故か逆らえず、言われるまま門から中へと入って行く。 「手を見せてください」  男は嵌めていた手袋を外し、美雪に手を差し出す。その手の上に手を重ねると、白い指からまたぷっくらと赤い血が膨れ上がってきていた。  男は一旦手を離すと、ポケットから絆創膏を取り出しその指に貼った。 「あの……ありがとうございます。全然たいしたことないのに」 「いえいえ。美しい指に傷が残ったら大変です」  男の所作と言葉にどきどきしてほんのり顔を赤らめる。 「旅行をされているのですか?」 「はい。でも、迷子になってしまって」 「薔薇、素敵ですよね。圧倒されてしまいました。ここは、誰かのお屋敷ですか?」 「み、美華」  興味津々に訊ねる美華を美雪は慌てて止めようとする。もちろん本心は美華同様知りたい気持ちに溢れていたが。  男はにっこり微笑んだ。 「そうですね。素性は明かせませんが、ある高貴な方の隠れ家とでも言いましょうか」 「全然隠れてませんよ~」 「ははは、そうですか」    そんなこともないかと、二人は思っていた。  木々に隠れていたとはいえ、確かにここは突然現れた場所のような気がした。  観光地の傍にありながら、まったく隔離された世界のような。 「もし、この薔薇がお気に召したようでしたら、ご覧になって行ってください。ただし、館のほうには近づかれませんように」 「え、いいんですか?」 「どうぞ、ごゆっくり。私はもう少し薔薇の様子を見て回りますので」  そう言って男は背を向けて薔薇の中を歩いて行った。 「どうする?」  と美華。 「なんかちょっと怖い気も」 「館には近づかれませんようにって。なんか、ありそうだよな。ホラー映画みたい」 「ねぇ~」  しかし。  二人は顔を合わせて頷いた。  薔薇の美しさと好奇心には逆らえず、広大な薔薇園の中に入って行った。

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