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第6話 桜狂い

俺は片田舎から出て、地方都市の大学に入学した。 大学は、郊外にあることが多いが、その大学は敷地が広い割に町中にあった。 桜の名所も近くて、早速友人たちと花見の企画をした。 一発目の花見は大学近くの池だ。 一周するのに30分はかかる大きさで、その周りが桜並木になっている。 昼間から場所取りをして、早く来た人から飲み始める。 俺は3時くらいから合流して、屋台を冷やかしつつ、ちょっとずつ飲み始めた。 夕方になってきて、周りも賑やかになってきた。 トイレに行きたくなって探していると、5分くらい歩いたところに公衆トイレがあった。 用を足していると、BGMが聞こえる。 ”さくらさくら”だ。 なつかしい。 しかも箏の演奏だ。 随分、優雅なトイレだと思った。 花見の場所に戻ると、今日のメンバーが揃っていた。 トイレのBGMの話をすると、”公衆トイレなんかに音楽を流すわけない”と言われ、試しに友人が聞きに行った。 戻ってきて言うには、やはり鳴ってなかったらしい。 あれはなんだったのか。 幻聴にしてははっきり聞こえすぎる。 ♢♢♢ 翌日、俺はまたその池に来ていた。 受験勉強で鈍っていた体を動かしたくて、走りに来たのだ。 この池は、散歩やランニングコースにも向いていて、普段から人はそれなりにいた。 調子良く走っていると、例の公衆トイレに差し掛かかった。 やはり、箏の音色が聞こえる。 幻聴じゃなかった。 曲は、知らないものだ。 すごく激しくて、優雅な箏のイメージが良い意味で崩れた。 だが、トイレのBGMにはふさわしくない。 あんなにせき立てられるような曲では、出る物も出なさそうだ。 その後もほとんど毎日ランニングに行き、トイレ前で演奏を聞きながら休憩した。 箏のことは何も知らないし、音楽を理解する感性は持ち合わせてなかったが、不思議とそのトイレのBGMは心惹かれた。 日本人のDNAだろうか。 ♢♢♢ 1週間ほどで桜は散った。 それと同時にあのBGMも流れなくなった。 花見の時期限定だったんだろうか。 あるのが当たり前だったものが無くなると、なんだか寂しい。 だからといって、箏の曲なんて何をどうしたら聞けるのかわからない。 タイトルもわからないし、有名な演奏者もわからない。 無料動画サイトで検索すると出るには出るが、なんか違う。 あのBGMがいい。 初めて聞くような、でも昔から知っているような。 お正月にスーパーとかで流れているのはなんとなく聞いているけど、ちゃんと聞くといいもんだな、と。 いつもいる幼馴染の女の子が、いつの間にか女らしくなっててドキッとしちゃった……みたいな感じ?ちがうか。 よっぽど、池を管理しているところに聞いてみようかと思った。 そんなとき、友人からバイトに誘われた。 和楽器の演奏会のバイトだった。 ぜひ、と返事をした。 詳しい人に聞けば何かわかるかもしれない。 ♢♢♢ 演奏会当日と、前日リハーサルの二日間のバイトだった。 楽器をステージに運び、並び方を調整して、決まったら舞台にテープを貼って印をつけていく。 その後、リハーサル演奏があって、また他の団体が入れ替わって……という感じだ。 俺は舞台袖で資料を確認していた。 すると、聞き慣れた曲が聞こえてきた。 あのトイレのBGMだ!! 俺は急いで客席にまわって舞台を見た。 ソロ演奏だ。 スポットライトの中、一人の男が箏をかき鳴らしている。 男?! 箏と言えば、女じゃないのか? 実際、楽屋を見ればほぼ100%女性だ。 男の指は繊細で軽やかに動いているように見えるが、音色は力強く迫力があった。 一方で、さすが音楽ホールなだけあり、切なげな余韻もしっかり残った。 俺は、箏の音の美しさと、演奏する男の姿と、またあの曲が聞けたという感動で胸が震えた。 演奏が終わり、俺は仕事のことも忘れて拍手をした。 男はこちらを見て、笑顔で会釈してくれた。 舞台袖に急いで行き、彼に声をかけた。 「素晴らしい演奏でした!俺、初めて音楽で感動しました!」 「それは良かったです。箏ってなかなか聞く機会がありませんから、興味を持ってくれるなら幸いです。」 男はにこやかに言った。 同世代くらいに見えるが、やたら貫禄がある。 周りが忙しそうだったので、それ以上は話せなかった。 パンフレットで名前を確認する。 花菱咲耶 ネットで検索したら、花菱家は代々、箏と三味線の先生をしているらしく、咲耶は期待の若手演奏家らしい。 通りで、だ。 ♢♢♢ 翌日は朝から夕方までのバイトだ。 開演前だが、咲耶に贈り物が届いたので渡しに行った。 60人を超える演奏者の中で、箏の男性演奏者は咲耶だけだ。 控え室がそのまま着替えに使われるので、咲耶は個室が当てられていた。 咲耶の部屋をノックすると、本人が出てきた。 「贈り物を届けに来ました。」 「ああ、ありがとうございます。昨日は、せっかく声をかけてくれたのに、バタバタしてごめんね。」 「いえ、こちらこそ、お忙しいところ急にすみません。」 「あの、もし良かったらお昼ここで食べませんか?見ての通り、女性ばかりでしょう?1日中、一人でちょっと寂しいんです。お昼だけでも、話し相手になってくれませんか?」 咲耶に誘われた。 正直嬉しかった。 バイトの方も、知らない女の子ばかりで気まずかったのだ。 「ぜひお願いします!」 そう返事をして、昼食の時間を決めた。 ♢♢♢ 昼休みになり、楽屋に行く。 昼休みとはいえ、バタバタしているのでゆっくりはできない。 食べながら自己紹介をした。 「大学一年生の三浦和樹です。和楽器のことは実は全然わからないままバイトしてました。」 「俺は23歳だから……4歳上かな。見ての通り、箏の演奏が仕事なんだ。」 結構年上なのにそう感じさせないのは、芸術家だからだろうか。 早速だが、あの件を聞いてみた。 「あの、咲耶さんの曲、池の公衆トイレのBGMになってますけど、有名な曲なんですか?」 「公衆トイレのBGM?」 俺は花見をした日のことや、ランニング中の話をした。 「あはは。それは俺だよ。」 咲耶は笑った。 「え?そうなんですか?」 「俺の家が、そのトイレの近くなんだ。俺の練習を聞いてくれてたんだね。」 そういうことか! 言われて見ればなんてことはない。 そりゃ公衆トイレのBGMにしては高尚だな、とは思ったよ。 「すみません……トイレのBGMだなんて、失礼なことを……。」 「何も失礼じゃないよ。聞いてもらえて嬉しいな。特に一般の人ならなおさら。他の先生や習ってる人なら聞き合うけど…そんなに毎年新しい人が来る世界じゃないから、いつも同じメンツになってしまうんだよ。正直、マンネリなんだよね。」 咲耶は苦笑しながら話を続けた。 「良かったら、連絡先交換しない?俺、男友達がすごく少ないんだ。女性が大半の世界にずっといるから。」 俺はもちろんOKして、連絡先を交換した。 「ホント、俺、世間知らずだから。びっくりしないでね。」 咲耶は終始ニコニコしていて、思ったより話好きだった。 凄い演奏家だから、もっとお堅いのかと思っていたらそんなことはなく、人懐こかった。 女性の世界で可愛がられてきて、そうなったのかもしれない。 ♢♢♢ 咲耶の演奏の番になり、俺は客席に忍び込んで立ち聞きした。 咲耶の袴姿はかっこよくて、演奏に没頭しているときの表情は妖艶だ。 箏の音色で、会場は幻想的な空気に包まれた。 演奏が終わると一段と大きな拍手が鳴る。 咲耶の演奏はいわゆるレベチで、箏を知らない人でも聞いたら唸るだろう。 こんな身近に素晴らしい芸術があるとは思わなかった。 箏にも惹かれるが、咲耶と友達になれたことにも胸が高鳴った。 演奏後は話せなかったが、帰宅してからメッセージを送った。 すぐ返信が来て、一緒にごはんを食べに行くことになった。 俺はまだこっちに来たばかりで、お店のことがよくわからない。 それを伝えると、咲耶のおすすめのお店に連れて行ってくれることになった。 ♢♢♢ 最初はごはんや飲みに行くことが多かったが、段々に俺のアパートで宅飲みすることが増えた。 俺がつまみを作ってだらだらと話し込む。 俺が忙しいときは、咲耶が洗濯をしたり掃除をしてくれるようになった。 俺が運転免許を取ってからは、咲耶の車を借りてドライブにも行った。 咲耶はペーパードライバーで、免許証はただの身分証明証だ。 車を自由に使っていいと言われたので、その分、咲耶の細々した送迎をしてあげた。 秋には、咲耶が京都の箏の勉強会に行くことになり、俺も便乗して行った。 咲耶は京都に似合っていた。 咲耶はたしかに世間知らずで、スマホは滅多に触らない。 スマホは電話とメッセージだけ。 流行りはわからないが、読書好きで歴史や古典に詳しい。 ラーメンは食べたことがないし、ファーストフードも食べない。 服や小物は高級で、どうやら母親が定期的にブランドものを買ってくれるらしい。 そう、なんか公家感があるのだ。 咲耶の得意な話と俺の詳しい話がことごとく違うので、延々と話せた。 咲耶はいつも上機嫌な男で、ずっと一緒にいても飽きないし疲れなかった。 ♢♢♢ 2回目の花見の季節は、咲耶と池の周りを歩いた。 身近な場所で何度も来ているが、桜が咲くと急に日常でなくなる。 桜の季節が短いからだろう。 「”さくらさくら”をうたってみて。」 急に言われて戸惑ったが、うたってみた。 「日本の音階って、西洋の音楽とちょっと違うんだ。歌詞の『さくらさくら』の、『ら』の時の音。和樹の歌声だとちょっと高いんだ。」 そう言って、咲耶は正しい音でうたってくれた。 たしかに、『ら』の時の音が低い。 「和樹のさくらだと明るく聞こえて、俺のさくらだと暗く聞こえる。ちょっとの違いだけど、昔の日本人が桜を見て、何を感じていたかわかる気がしないかい?」 そうかもしれない。 満開の桜の美しさと、散っていく儚さ。 また季節は巡るけど、決して同じものではない。 確実に衰えていき、いつかはみんな消えてしまう。 「……今度、何か演奏してよ。俺のために。」 「え?そこまで興味あるとは思わなかった。」 「今みたいに解説があると違うじゃん。」 「いいよ。じゃあ今度は俺んちに来てね。」 ♢♢♢ それから度々咲耶の家に行った。 咲耶の家はお屋敷って感じだった。 お弟子さんたちの出入りもあって、ダラダラはできないけど、咲耶のお母さんに気に入られて、夕飯をご馳走になることも度々あった。 咲耶の演奏は、やっぱりすごかった。 舞台の咲耶が一番いいとは思うが、近くで聞くとまた違う。 ちょっと音が鳴っただけでも凄さがわかる。 演奏会は仕上がった絵画で、部屋で聞く練習は落書き。 上手い人は落書きすら上手い……という感じ。 「今度、この人と演奏するんだ。箏と尺八の二重奏。」 チラシを見せてくれた。 イケメンの尺八奏者だった。 次の演奏会にゲストで来るらしい。 それから、そのイケメン尺八奏者との練習会が何回かあった。 練習場所は公民館だ。 そのイケメンは他の曲にも出るので、公民館には他の女性の演奏者たちもいて賑やかだった。 俺は咲耶の送迎係をしたが、練習時間が1時間程度で車で待機するには長いし、用足しするには短いので、一緒に中に入らせてもらうことにした。 咲耶とイケメンが演奏を始める。 俺みたいな素人でも、息がぴったりなのはわかる。 盛り上がりや掛け合いが、本当に今日初めてとは思えないくらいできている。 一度演奏が終わると、二人が細かな打ち合わせをする。 俺には何を言っているのかわからない、専門的な話だ。 咲耶はうんうんと頷いて、イケメンからの注文を受けていた。 時々、そんな専門的な話で笑っている。 二人の世界だ。 咲耶の笑顔を見て、俺は胸が苦しくなった。 ♢♢♢ その日の夜は、そのイケメンとの交流会だった。 会場が咲耶の家からは遠く、帰りに迎えに行くことになっていた。 迎え時刻が近づいてきて、咲耶からメッセージが入った。 急遽二次会に行くことになったから、帰りはタクシーにすると。 俺は、何時でもいいから迎えに行くよ、と返信した。 二次会は1時間半くらいで終わり、迎えに行った。 車の中で、咲耶は今まで以上に機嫌が良かった。 あのイケメンの活躍や、業界の有名な先生の話、演奏会のエピソード。 咲耶の邦楽オタク魂に火がついたようで、饒舌だった。 ゆっくり聞きたいからアパートに寄って行ってと言って、部屋の中に入れた。 一応つまみは作っておいたが、お腹いっぱいだから要らないと言う。 咲耶は、言いたいことを言って満足すると、ポツリと言った。 「やっぱりさ、上手い人って違うよね。こっちも安心して思い切り弾ける。細かいところだからこそ、そこが合うとね、わかってるな!って感じがするんだ。あっちが俺に合わせてくれてるんだろうけど。」 なんかイラついた。 「そんな、うっとりとした目で言うなよ。」 「え?まあ、結構飲んできたからね。」 咲耶がいつものように笑ったが、俺は笑えなかった。 俺は咲耶の腕を引き寄せると、あのおしゃべりな口にキスをした。 「和樹?!」 抱き寄せて、何度も唇を重ねる。 和樹も最初は抵抗したが、逃げられないとわかると俺のキスを受け入れた。 「……その……俺……雰囲気が男らしくないから誤解されがちだけど、男は恋愛対象じゃないんだよね……。」 咲耶からそう言われて、俺は泣きそうになった。 「俺だって、つい最近までそうだったよ……。でも、お前があのイケメンと楽しそうにしてて……。俺のわからない話で笑ってるのがムカついたんだ。口を開けばそいつの話だし、わかってるけどさ、嫌なんだよ、お前が他の男とイチャイチャしてるのが!」 「イチャイチャって……仕事だよ!お前からしたらただの合奏だよ?二次会には行ったけど、他の人もいたし、芸能人に会ってテンション上がった、みたいな話だからさ……。」 俺から離れようとする咲耶を無理矢理抱きしめた。 もう友達には戻れない。 ここでキモがられるか、恋人になれるかの二択しかない。 でも、さっき言われてしまった。 男は恋愛対象じゃないって。 馬鹿なことをした。 一時の嫉妬に負けたせいで、友達ですらいられなくなる。 本当に……俺は馬鹿だ。 俺は、咲耶を押し倒した。 ♢♢♢ 俺が暴走したあの日から、咲耶のメッセージは途絶えがちになり、遊びに誘ってもやんわり断られた。 避けられている。 辛かった。 いつも咲耶のことを考えてしまう。 だからといって、今しつこくしたらもっと嫌われてしまう。 咲耶に会いたい。 3年生になり、その年は花見に行かなかった。 桜を見ると、咲耶のことがより鮮明に思い出されるからだ。 俺は、インターンシップを入れたり、バイトやサークル活動に精を出して、忙しく過ごそうとした。 咲耶を忘れたかった。 ♢♢♢ 4年生になった。 サークルの新人歓迎会があの池で行われることになって、俺は場所取り係になってしまった。 決してあのトイレには近づかない。 もし箏の音色が聞こえてきたら、俺は発狂する。 一年以上経っても、俺の気持ちは変わっていなかった。 メンバーが集まり、乾杯する。 適当に飲んだら帰るつもりだった。 この池での思い出は、まだ俺には生々しい。 トイレから戻って来た一年生の女の子が言った。 「もしかして、この近くにお箏教室はありますか?」 和樹なら知ってるんじゃないか?と、話を振られる。 「ああ、あるけど……。」 「今、箏の演奏が聞こえてきて。かなりお上手だなと思って聞いてました。私、高校は箏曲部だったんです。続けたくて、教室を探してて。もし、お知り合いなら紹介してほしいのですが……。」 無関係になったにも関わらず、俺は咲耶が褒められて鼻高々だった。 そうだろう、そうだろう。 あいつは凄いんだ、と。 あれだけの腕前なのに、人柄は気さくで、今どきのことはわからなくて、ちょっと天然で、子どものまま大きくなっただけみたいで可愛いのだ。 紹介は少し躊躇ったが、俺がこの地にいるのもあと一年。 就職は県外を考えているからだ。 振られた後だし、これ以上の苦しみもないだろう。 そう思って、彼女に咲耶を紹介することにした。 ♢♢♢ 咲耶に連絡をすると、生徒募集をしているとのことで彼女の連絡先を教えた。 俺は、勇気を出して、飲みに誘った。 前から咲耶が行きたがっていた店だ。 県外で就活をしていることも伝えた。 これで断られたら、もう連絡先を消そうと思っていた。 いいよ と、返事が来た。 信じられなかったが、咲耶も丸切り俺が嫌いになったわけじゃないのだろう。 でも、喜びより不安が大きかった。 ♢♢♢ 早めについて、待てずに一杯頼んでしまう。 酔って失敗するのも嫌だが、しらふでは会いづらい。 時間通りに咲耶は来た。 「久しぶりだね。元気にしてた?」 咲耶は変わっていなかった。 「ああ。久しぶり。俺は……就活生やってるよ。」 咲耶の笑顔に、緊張は少し緩んだ。 「あの子、紹介してくれてありがとうね。もうかなり弾けるから、本格的にやっていくことにしたよ。」 「そっか、それは良かった。」 咲耶が飲み物を頼む。 咲耶は漬物が好きで、最初に頼んで半ばにもう一度頼み、最後までかじりながら飲むのが常だった。 適当に近況報告をする。 咲耶にいつもの饒舌さはなかった。 俺の大したことない大学生活やら就活の話が続く。 そんな話をしたくて誘ったわけじゃない。 あの頃みたいに楽しく過ごせたら御の字だと思っていたが、無理そうだった。 「今から、池のとこを歩かない?今日は満月だし。」 そう言われて店を出た。 ♢♢♢ 空は澄んでいて、たしかに満月が夜空にくっきりと浮かんでいた。 思っていた以上に明るい。 夜のウォーキングの人や、犬の散歩の人もいる。 少し歩き始めて、なんとなく人が近くにいなくなったとき、咲耶が言った。 「あのさ、俺、和樹とは友達でいたいんだ。」 踏みしめた砂利の音が響く。 「あの頃みたいに、一緒に過ごせたらいいなと思ってる。」 道が細くなって、俺が先を歩く形になった。 「期待に応えられないから、変に一緒にいない方がいいかとも思ったんだけど……。あと一年しかないなら、やっぱりこのままお別れは嫌だな、って思ったんだ。」 また道が広くなり、咲耶が横に並ぶ。 「……うん……俺も……また咲耶と一緒にいたいと思って、連絡したんだ……。」 友達として? そうにしか、ならないだろう。 咲耶の気持ち的に。 俺に選択肢は無い。 不安だ。 また、嫉妬しないか。 咲耶と二人きりの時に我慢できるか。 咲耶と会えない時ですらあんなに咲耶を求めていたのに、本人に触れられないなんて辛すぎる。 「……今日……来てくれてありがとう。良かったら、これからも”あの時”みたいに付き合ってよ。送迎もするからさ。」 俺は努めて明るく言った。 「うん、じゃあよろしく。母さんもね、和樹を気に入ってたから、来なくなって寂しがってるよ。」 そうか、俺が咲耶のお母さんと結婚すれば、咲耶の家族になれるな。 そんなことが頭をよぎった。 ♢♢♢ 翌年の春。 俺と咲耶は、咲耶の部屋から池を眺めていた。 青空と水面のきらめきが、桜のうすピンク色を引き立てていた。 「大手に受かってて、なんで辞退したの。もったいない。」 咲耶が練習の準備をしながら言う。 「ライフ&ワークバランスを考えてね。」 考えているのは咲耶のことだけだ。 バランスなんか無い。 「まあ、俺は和樹と遊べるのはいいけどさ。」 咲耶が調絃を始める。 あの形の良い耳で、わずかな狂いもなく音を合わせていくのだ。 準備ができて、咲耶が練習を始める。 トイレ付近で、おじいさんが足を止めて耳を澄ます。 若い女の子二人が、箏の音だよ!と声をあげる。 子どもを連れたお母さんが、これがお箏だよ、と教えてあげる。 そうだろう、そうだろう。 ”俺の”咲耶の演奏は凄いだろう? 俺は鼻高々だった。

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