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第8話 衣兎族の集落 ①

 翌朝。  ニケは姉の部屋前に行くと、遠慮なく戸を開けた。  スパンッ。  中では、白い青年がぐっすり眠っている。疲労がたまっていたのだろう、昨日は一度も目を覚まさなかった。別に心配してちょくちょく様子を見に行った、とかではない。部屋を荒らしていないか確認するためだ。そう、必要なことだ。  無駄に上背があるせいで、足首が布団からはみ出ている。よいせとフリーを跨ぐと、窓を開けた。 「んっ……」    差し込む眩しい光に、フリーは瞼を震わせる。ごろりと上を向くと、ようやく金緑石の瞳を開いた。  霞んだ吐息のような声を出す。 「……誰だ?」 「僕だ。起きろ寝坊助」  つつくように脇腹を蹴ると、フリーは跳ね起きた。  尻餅をついた状態ででわたわたと後ずさる。何とも大げさな反応に見えた。 「なにやってんだ」 「あ……いや。ニケ、か」 「はあ?」  不機嫌な顔をするも、フリーは胸を押さえ、安心したように呟く。 「夢、じゃなくて良かった。起きたらまた、あの冷たい檻の中にいて。ニケと会えたことは夢だった……って悪夢見て目が覚めた、から」 「……」  一度は目を覚ましたようだ。  今にも泣きそうな声でほほ笑むフリーに、自分の顔が赤くなるのが分かった。 「ふ……フンッ! 雇われの身で僕より起きるのが遅いなんて、たるんでいるんじゃないのか? 明日は僕より早く起きて飯を……飯……を、炊いたことあるか?」 「炊くって?」 「ああわかった。もう分かった」  そこから教えねばならない。  軽いめまいを感じながらも赤くなった顔を見られたくなくて、袖で隠そうとするが、たすき掛けしているんだった。  しょうがないので首を思いっきり壁際に捻る。 「着替えて顔を洗ってこい。仕事は山ほどあるんだからな。さっさと覚えてもらうぞ」 「はい!」  嬉しくてしょうがないという弾んだ声。布団も畳まずに部屋を出て行くフリーに、あきれたニケはため息をつく。目覚めは良い方らしい。  まったく何を勘違いしているんだか。ちょっと雪の中から助けて飯をもらったからって、僕のことを良い人とでも思ったのだろうか。 (なにが「夢で良かった~」だよ)  二度とそんなことが言えないくらい、奴隷扱いしてビシバシこき使ってやるぞ。  冷めた目でフンと鼻を鳴らす。  だが……その口元は緩んでいた。 「米の洗い方はわかるか?」 「は?」 「魚の捌き方は?」 「ひ?」 「えっと。味噌汁は? 作ったことは?」 「ふ?」 「野菜を切ったことは?」 「へ?」 「あああああああんもおおおおお!」 「落ち着け、ニケ。なんで三角巾を床に叩きつけるんだ。どうしたんだ」 「お前さんのせいだわ! とんだ無能じゃないか。じゃあ何? 何なら出来るの?」 「えーっと。雑用と掃除と水汲み、死体の片づけ。数も十までなら数えられるよ」 「………………うん」  うん。  この付近で一番大きな街といえば紅葉(もみじ)街ではあるが、わざわざ山を下りてそこまで行かなくとも、凍光山にも小さな集落はいくつか存在する。  (ニケが作った)朝食を食べた二人は、そのうちのひとつに向かっていた。  徒歩で。 「あ、歩いていくんだね?」 「なんだ? 転がって行くつもりだったのか?」  ペンギンのように滑った方が早いという生き物もいるので、人族もそういう風に進むのかと心配するような声音で聞き返され、フリーは口元を引きつらせた。 「あ。……いえ。なんでもないっす」 「?」  変な奴、と首を傾げ、たかたかと山道を下る。  赤犬族は足が達者で歩くのが好きだ。趣味は? と聞かれたら「散歩」と真っ先に答えるくらい。  ニケとフリーは竹の皮使用の網代笠を被っている。日よけ雨よけ雪よけと、旅には欠かせない代物だ。といっても赤犬族の使う笠には穴が二つ開いており、ニケの笠だけ黒い耳が顔を覗かせている。  杖(お客さんの忘れ物。もう三年も取りにこない)を貸してもらっているが、ニケは杖もなしにがったがたの獣道を身軽に歩いていく。  大きな笠を被った小さな子が歩いている、というだけで癒される。身に纏っている着物もすぐに大きくなると思って大きめの物を買ったのか、少しダボついている様も愛らしい。  思わず視線が固定されていると、ぴくっと犬耳が揺れる。次の瞬間、ぐるんとニケが振り向いた。だが、その直前にフリーが神速で首を上に向けたので、二人の視線がかち合うことはなかった。 「……」 「……」  ニケが「おかしいな。視線を感じたんだが」と呟いて前に向き直る。  しばらく無言で歩く二人を、じりじりと初夏の日差しが照り付ける。フリーは手の甲で汗を拭うと、今歩いている山道を境目に「雪が積もっている」方へ目を向けた。さらにその向こうは吹雪いているというのに、どういうことなのだろうかこれは。  まるで宿を中心に、山の一角だけ夏が居座っているかのようだ。空から見れば、ここだけ雪が降らずに、緑に覆われて見えるだろう。かといって、すぐ横の冷気が流れ込んでくる気配もない。  フリーは前を行く犬耳に声をかける。 「なあ、ニケ。何故ここだけ雪が降らないんだ?」 「ん? ……ああ。気になるか?」  頷くと、ニケは自分の背丈以上の段差をひょいと飛び降りて答える。 「っと。昔、ここで火竜族が卵を産んだんだよ。「火竜が卵を産めば夏を招き、氷竜が産めばその地は冬に閉ざされる」って言葉通りさ。つってもここ、凍光山は並の寒さじゃないから、夏って言うか初夏程度の暑さにしかならんかったがな」  フリーも段差を飛び降りる。着地は難なくできたのだが、歩き出そうといて小さな段差に躓き、万歳の姿勢で顔からコケた。 「ほぐっ?」  すっ飛んだ笠を、超あきれ顔のニケが片手でキャッチする。 「いでででで……」 「……っとに、どんくさい奴だな。ほら、ちゃんと顎紐を結んでいないからだぞ?」  赤くなった鼻を押さえるフリーの顎に、笠の紐をややきつめに結びつけてやる。 「あ、ありがとう」 「はあ。お前さんに姉ちゃんの着物を着せていたら、すぐに穴だらけにされそうだ。生活品の他に、お前さんの着物もいくつか調達するか」  無駄遣いする余裕なんてないのだが、姉の着物がぼろぼろになってしまう事態は避けなければ。  その分、働いてもらうがな! 「ニケは面倒見がいいんだな」  痛かったのか涙目になりながら砂埃を払う人間に、眉を下げて自身の頬に手を添える。  姉がどちらかといえばドジっ子だったので、そのせいかもしれない。知らないうちに高まっていた、自分の(いらん)スキルの高さに気づいてしまい、ニケは頭を抱えたくなった。  あまり考えたくないので、さっきの話題を引き戻す。 「で、雪が降らないのは、火竜がここのどこかに卵を産んだからだ」 「その卵は?」  歩き出す二人。  だが、フリーの手はニケの着物の袖を摘まんでいた。  もしかしてアホみたいに転んだのがショックだったのか。幼子のような真似をする巨人に、ニケは開いた口がしばらく塞がらなかった。 「ニケ?」  ニケの反応に、フリーは不思議そうに首を傾げる。しかも自覚がないようだった。  ため息をつきそうになるのを気合いで堪える。こやつといるとため息の回数がどんどん増えていく。これ以上幸せを逃すのは嫌なので頭を振って空を見上げる。  「夏」の範囲はそこまで広くない。地図で見れば点のようなものだろう。夏エリアを抜けようとしているのだ。雪雲が近づき、道にうっすら雪が積もり始める。 「とっくに孵化して飛び去っている。残っているのは「竜が卵を産んだ」事実だけだ」  着物を掴まれて少々歩きづらいが、払いのけないでおいてやった。フリーを一人にするとなんだかまた、転びそうな気がしたのだ。 「そうなんだ?」 「まあ、な。もう百年も前の話らしい」  これも姉から聞いた話だ。  フリーは興味深そうに、夏と雪山の境目を交互に見ている。 「百年経っても、その「夏」は続くんだね」 「二百年続いた記録もあるし、まあ、当分はこのままだろう」  赤犬族は寒さに強いとはいえ、お客さんはそうもいかない。薪代を節約できるのはありがたかった。 「うっ。さぶ!」  夏エリアが終わる。  途端に包まれる凍てつく空気に、フリーはぶるりと身を震わせる。  ――温度差で身体を壊しそうだ。  辺りはぐんと暗くなり、雪がちらつき始める。  汗で濡れた着物が冷やされ、フリーは盛大にくしゃみした。 「ぶえっくしゅん!」 「花粉症か?」 「ええっ? ニケはこの温度変化、平気なのか?」 「僕らは暑さにも寒さにも強いよ。なんだ、この程度で寒がっていたら、吹雪の中に入っていけないぞ」  吹雪と聞いて魂が出そうになっているフリーを無視して、ニケはふむと腕を組む。 (寒さに弱いのなら、厚めの着物が必要だな)  ニケとフリーが着ているのは、動きやすさを求めた薄い生地の着物だ。夏ならともかく、これでは寒さは防げない。  ちらりと後ろを見ると、案の定、フリーは鼻水を垂らして凍えていた。 (……チッ)  フリーが雪に埋もれていたときのことを思い出し、ニケは歩調を速めるのだった。

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