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第17話 掃除 ①

 初日は布団を敷くと気絶するように眠ってしまった。初めての布団だったのに勿体ないことをした。 「今日は布団の上でごろごろ転がってやるぞ。こんな柔らかいものの上で眠れるなんて、夢みたいだ」  下手な鼻歌を歌いながら布団を畳の上に敷いていく。  風呂上がりの彼は寝間着の浴衣姿。それはいいが、髪は乾かさずに束ねたままである。  おかげで、フリーの歩いた廊下に点々と染みが出来てしまっている。  宿の主に見つかればまた小言をもらうだろうが、そもそも風呂初心者の彼は分からないことだらけだ。  しかも初回はニケがいつの間にか髪を拭いてくれたため、フリーは「寝たら髪も乾く」と、勘違いしていた。  このまま眠れば浴衣も布団も枕もびしょ濡れになるだろう。  だが、注意してくれるヒトが風呂から出てくる前に、布団は敷き終わってしまった。 「とうっ」  両手を伸ばし、黄色い花柄の布団に飛び込む。  ぼふっと身体が沈み込んだ。  大の字になると、それはもう雲に寝そべっているような素晴らしい心地。視界に広がる天井が、しだいにぼやけてくる。 「……すやぁ」  そのため、今宵もフリーは布団を堪能する間もなく……即寝してしまった。  翌朝。ニケに叱られたのは言うまでもない。 ♦  ニケが予報してみせたように、その日は朝から雨だった。  ざあーという雨の音が宿を取り囲む。畑や山の深い緑を叩き、水溜まりの水面に波紋が重なり合う。  『誰かさんが髪を乾かさずに寝たから、浴衣や布団を干さないといけなくなったじゃないか雨なのに』とちくちく責められ、フリーがしくしく泣きながら謝っている頃……  凍光山(とうこうざん)の標高二百メートルから上は危険区域とされ、道とも呼べない細い山道は閉鎖されている。  とはいえ極寒の山奥。見張る者もいないため、入ろうと思えば誰でも入れてしまう。しかし生きては帰れない。  ここより先、足を踏み入れ、かつ生還できるものとなると限られてくる。高位の修行僧か、二級以上の資格を持った猟師のみか。それでも生還率百パーセントという保証はどこにもない。  この山はどういうわけか上に行くほど木々の色が暗い黒に変色していく。危険区域までくると木々の色は完全に黒に染まり、枝に茂る葉っぱは光合成を諦めたかのように濃い灰色。  そのせいか、雪に包まれた凍光山は見事な白黒世界を造り上げている。  色のない世界。華がなくも美しいそれは、悲しいかな立ち入った者を迷わせる原因でもあった。 「ハッ、ハッ」  そんな木々の間を、矢のように横切る人影が。  影は一見すると女性のようでもあった。こめかみから頬まで走る傷跡のようなものがあり、耳らしきものは確認できない。しかし耳は無いが聴覚はある。海底の砂のように白い肌。  細長い両手は肘のあたりから鎌のようなものが飛び出している。感情が見えにくいガラス玉めいた円らな黒青瞳は、物陰に隠れた獲物さえ見つけだす。  彼女は猟師でもあり退治屋でもあった。  増えすぎた動物を狩り、森を荒らしヒトに害成す魔物を駆除する。  魔に染まり、化け物へと姿を変えたモノを総じて魔物と呼んだ。  特に危険度の高いこの山にはちょくちょく訪れる。魔蟲(まちゅう)、魔獣、生ける屍、果ては悪魔までもが跋扈する、文字通りの魔境であるからだ。  ――とはいえ、凍光山の魔物たちは強い割に比較的おとなしい。氷の力を宿す魔物が多いため常冬の山が居心地良いのか、それとも高い知能のためか。滅多に人里に下りてこない。  知能が高いという点は無視できないほど恐ろしいが、ちょっかいをかけてこないなら放っておけばよい。だが今、彼女が追いかけているのは人里で暴れた魔獣であった。 (おっと。見つけた!)  遥か前方、茂みの向こうに獲物の影を捉えて、彼女――ガレナエルティベト、通称レナは、ぎらりと歯を見せて嗤う。草食動物、いや、気の弱いものが見れば一目散に逃げだしているだろう。そんな本能に訴えかける恐怖が、桃色の唇からこぼれだす。鮫のような獰猛な笑み。  レナが追う得物、それは龍虎(りゅうこ)と呼ばれる恐ろしき大虎であった。  白い世界で隠れる気のない朱色の体毛に、尻尾まで走る鈍い銀のたてがみ。体毛のところどころに龍のような鱗を持ち、六本の足で風のように山を駆ける。見上げるほどの巨体であるというのに、葉音ひとつ立てないのだから大したものだ。 (こんな化け物が中堅どころというのだから、この山は恐ろしい)  縄張り争いで敗れたのかなんなのか、走りながらぼたぼたと血をこぼす。その怪我を治すためだろう、小さな村が襲われた。赤い夕陽に染まる、賑やかだった村。  たまたま故郷を離れていた姉妹だけが食われずに生き残った。「良かったな」などと、言えるはずもない。  別にその姉妹に同情したとか、正義感が燃えたとか、そんな理由でこんなところにレナはいるのではない。人の味を覚えた魔物は狩る。  それだけだ。 (……)  そのはずなのに、いつまでも姉妹の泣き顔が瞼の裏にちらつく。それを消すために、龍虎、お前の死は絶対だ。  気性の荒い龍虎が逃げに転じるほど、レナは手傷を負わせてきたがどれも浅い。この魔獣を仕留めるには、必殺の一撃がいる。  針金のような棘を持つ茂みを飛び越えると、レナはそのまま雪に「ダイブ」した。まるで落とし穴にはまったように、女性にしては長身のレナがすっぽりと消える。  もちろん偶然あった穴にハマったとかではなく、彼女はプールに飛び込む姿勢で、雪に潜ったのだ。  そして――そのまま雪の中を泳ぐように進む。うつぶせになったせいで、背にあったひときわ大きい、半分に折られた三日月状のヒレだけが雪上に出て、空気を切るように加速する。  ちらりと後ろを振り返った龍虎が「見るんじゃなかった」と言わんばかりに青ざめる。  黒いヒレは、馬鹿げた健脚ぶりを見せた龍虎を上回る、恐るべき速度で迫ってきたからだ。  次の瞬間、文字通りの死が牙を剥いた。  凍光山に積もった分厚い雪を突き破り、巨大な顎が龍虎の腹に噛みつく。

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