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第19話 掃除 ③
足が壺から離れる。
今まで見えなかった窓枠の上が視界に入り、ニケは目をぱちくりさせる。後ろを見ると、従業員が自分を抱え上げていた。
長身野郎の瞳が、見下ろす位置にある。
思わず「無礼者」とか「気安く触るな」とかいう言葉が口から出かかったが、なんだろうか。なんというか……悪くない気分だ。
しばらくの間、足をプラプラさせたりして空中浮遊を楽しんだのち、雑巾で窓の上側をごしごしとこする。ここは長年掃除できていなかったので、雑巾が真っ黒だ。顔をしかめる。
「うえぇ。汚い」
前は姉ちゃんがしてくれていたからな。踏み台を使って。だがその踏み台では、自分は届かない。しっかり拭っておく。
別にこの状況が楽しいから、長引かせているというわけではない。
「……ふえ」
ニケが尻尾を振るもんだから、腕や鼻先を擦ってくすぐったい。爆発しそう(くしゃみが)。
「よし。きれいになった」
「よかった~。じゃあ、下ろすね?」
そっと腕を下げようとしたら、ニケが高速で振り向いた。
「は?」
「え?」
床に下ろそうとした腕が空中で止まる。こっち向いたニケの顔は、理解できない状況に見舞われた人のそれ。ただひたすらフリーを見てくる。
何の感情も籠らない「は?」がこんなに恐ろしいとは。フリーの引きつった頬に、冷や汗が伝う。またなにかやらかしてしまったのだろうか? ここは一も二もなく神速の土下座をすべきか?
混乱状態で硬直する中、突如、ニケはぼっと顔を赤らめた。
「あああああっ。ち、違うぞ? あ、ああ~。あれ、あれだ! こ、この流れで棚の上も拭こうと思ったんだ!」
「そ、そうだったのか!」
「う、うん」
怒られずに済んだフリーが混乱気味に返事をする。それに合わせて何度も頷くニケ。
変な空気のまま、ニケを持ったままカニ歩きで棚の下へと移動する。
その間、ニケは浮いている自分の足先に目を落とす。
(ううっ。変な態度取ってしまった。でも、下ろそうとしてたし。この状況、た、楽しいし……)
認めてしまったが、自ら梯子役を買って出るとは、フリーにしては気が利くなと評価を上方修正していた。
でも、胸に寂しさが滲むのはどうしてだろう。
姉に抱きしめられた思い出ばかりが浮かんで消える。
ニケはこの状況を「抱っこされている」とは認識していなかった。あくまで「持ち上げられている」と。
端から見れば、下ろしちゃヤダとごねる弟と、それを甘やかす兄の図、だというのに。
「……っ」
そろそろ腕が震えてきたが、雇われの身は根性で耐える。
考え事と、やっぱりこの状況が終わってほしくないため、ニケの腕はのろのろとしか動かない。いつも以上に丁寧に、雑巾で棚の頭をなでなでする。
「……ぅ」
うつむいて余計なことを考えないようにして、踏ん張る十八歳。
ニケは口笛を吹いていた。大きな手に支えられ、薄れてきた寂しさに気づくことなく。
雑巾が全面真っ黒になってしまった。時間稼ぎもお終いである。一度、雑巾を洗いに行かねば。
「むう。……おい。下ろしとくれ」
「っはい」
結構な速度で下ろされたのは不満だが、雑巾を洗わなければならないので、まあいいだろう。水を張った桶まで小走りで行く。
振り返るとフリーが両腕を抱いて蹲り「うああああ」と唸っていた。なにをしているのやら。おかしなやつである。
雑巾を力強く手で揉むと、桶の水が灰色に染まる。
絞り終えるとニケは遊具に一番乗りした子供の顔で、まだ倒れているフリーの背に飛び乗った。
「おっほ!」
下からダメージを受けた人の声が聞こえたがお構いなし。肩の方に移動し、白髪をぺしぺしと叩く。
「ほれ。立て。そっちの棚の上も拭くからな。立ておら」
ぺしぺし。
「か、肩車しろってこと? それならもう、俺が拭いた方が効率あああっ」
後ろから頬を伸ばされて黙らされる。
何言っても無駄だと観念したフリーは、ニケの足首を掴むとゆっくりと立ち上がった。やるのは初めてだが、誰かが肩車をしているのは見たことがある。
「おお。天井に届きそうだ」
ニケが手を伸ばせば、板張りの天井はすぐそこだった。
「……えーっと」
肩車したのはいいがこれでどうやって棚を拭くのだろうか。ニケがかなり前のめりになるか、フリーが棚にめり込むかしない限り雑巾が棚に届くのは難しいと思われる。
だが、ニケはかなり身軽な種族だ。
踏み台の心配をよそに、肩の上で立ち上がるとそのまま雑巾がけを始めた。足首をフリーが支えているとはいえ、もはや曲芸の域である。
(うーん)
やっぱり俺がやった方が早いんじゃないかとか、効率悪いよねとか、色々浮かんだが、フリーは沈黙を貫いた。頭上から楽し気な鼻歌が聞こえてくれば、これ以上言うのは憚られたからだ。
三十分後。いつもより磨かれた倉庫はつやつやになっていた。今なら倉庫で寝泊まり出来そうである。
「そんなわけで今日からお前さんの部屋、ここな?」
「ぶっ! ……いやまあ、いいけど」
「冗談だ」
従業員を倉庫に押し込めているなど知られたら、悪評が立つ。
「裏の畑の方に、桶の水を捨ててこい」
「はい」
桶の水はすっかり濁っていた。両手で抱えて裏口に歩いてく。
「転ぶなよ」
「はい」
フリーが何か運んでいると不安になるわ。今考えると、よくそんなやつの肩に乗っていたものだ。……忘れていたとも言う。
これほど掃除に夢中になるなんて。掃除は嫌いではないが、この充足感はなんだろう。
今までの掃除が酷く味気ないものだった気がしてきた。いや、掃除に味気も何もないだろうに。
(……フリーが居るから、か?)
一人じゃないからだろうか。灰色だった宿内が、色づいて見える。
縁側から外に目をやれば、雨はまだ降り続いている。濡れた土も緑も、吹雪の山にも色がある。
(……?)
世界がきれいに見えた。色鮮やかな世界にいる、灰色の自分。
たまに来るお客さんや衣兎族のお母さんが言ってくれていた。「一人で大丈夫か?」と。
てっきり身の安全のことだとばかり思っていた。違うのだ。彼女たちが心配していたのは――
「ニケ?」
ビクリと着物の肩が揺れる。顔を動かすとフリーが戻ってきたところだった。
当たり前のように自分の横にくる。
「この桶は仕舞っておいたらいいのかな?」
「ん……。ああ。うん」
どこか上の空で返事をする。桶を片付けに行く白い背中をなんとなしに見つめる。
以前フリーが言っていた。「こんなに会話したの初めて」だと。
ニケも同じだったのかもしれない。だから得体の知れない人族など招き入れたのだろう。
どうにも心の中がぐちゃぐちゃで、ニケはうまく整理できそうになかった。
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