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第21話 一日の疲れを流す
掃除で終わった一日を振り返る。
一瞬雲の切れ間から覗く、沈みかけの夕日。逆光で黒に染まった木々が、影絵めいて見える。雨は一旦、上がったようだった。
太陽という光源がなくなれば人里離れた山など、伸ばした手の先すら見えなくなるほど闇に浸かる。今宵は星明りなども期待できないようだし。
埃まみれのフリーを一番湯に落としてきたニケは、ひとりで畑の様子を見に行っていた。
歩きなれた畑だが、作物たちの様子を見なければならないので、明かりは持って行く。折り畳み自由。ニケにすればちょっと大きい、黄色い花が描かれた丸提灯。
こういうとき自分の、火を生み出す魔九来来(ちから)は便利だなと得意になる。
坂道を歩くたびに提灯内の蝋燭の火が揺れ、それに合わせて周囲の影も不気味に踊った。
上空は風が強いのか、押されるように泳ぐ雲が切れ間を塞ぐ。
視界がぐんと暗くなった。そのせいか提灯の輝きは増したように思えて、影が濃くなる。
水を含んだ道を滑ることなく歩き、畑の土の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「――ふぅ」
ニケの好きな、雨上がりのツンとする香り。濡れた葉っぱの香り。こんな、好きなものに囲まれているのに満たされない心。
冷たい風が吹き、やわらかなニケの髪を弄んでいく。
(姉ちゃん……)
ぼうっとしていると気分まで闇に沈んでいきそうで、慌ててぷるぷると頭を振る。
提灯を作物の方へ動かす。
空芋と湯煙花の葉は雨でしおれるどころか、瑞々しくハツラツとしていた。
水滴のたくさんついた雑草を踏みつけ、畑を一周する。
アアァァ……
ニケの耳がピクリと動く。山の方から、風に乗って何かの悲鳴が聞こえた気がしたのだ。まるで鮫に腹を噛み千切られたような絶叫。
「ふむ。異常なし」
指さし確認をして宿に戻る。凍光山(とうこうざん)から変な音や悲鳴が聞こえるなどいつものことである。凍光山にいるときは気を付けねばならないが、今は魔物が近寄らない夏エリアという安全地帯にいるのだから、もう無視する。
裏口から入るのが癖になっているので、下駄を脱いで上がると風呂場へ向かう。勝手知ったる我が家ということで今度こそ提灯はいらない。火を消して、蝋燭を節約する。
宿の中も真っ暗だ。室内な分、外より暗いかもしれない。こうなる前に風呂に入っておかなければならないのに、掃除の日は夕食と風呂の時間を入れ替えるために、まだ飯も食べなくちゃならない。
(なにをやってんだ、僕は……)
暗い廊下の先を見ながら、肩を落とす。
いつものようにすればいいだけなのに、いつも通りに出来ない。ニケの日常に、フリーという異物が紛れ込んだからだろうか。
いや、これまで彼のせいにするのは酷だろう。ニケがしっかり時間と従業員管理すればいいだけの話だ。しかし、フリーにあれやこれやと教えながら説教していると、どうしても時間を喰ってしまうのも事実。
夏は日が長いからと、油断した。
(うーん。先が長い)
フリーが使えるようになるまで。
自分だって宿のことを一人で出来るようになるまでは、時間がかかったというのに、ニケはそのことがすっかり頭から抜け落ちていた。だからフリーの使えなさっぷりに違和感を覚えるのだ。
ぶつかることなく廊下を曲がり、風呂場の前に立つ。ざばぁとお湯を流す音が聞こえた。
(まだ入っとんのか)
埃まみれのニケは顔をしかめる。
そういえばフリーは髪が長かったな。それは時間がかかる。
仕方なしと素通りしかけて、ふと思い出す。
(そういえば、自分は男だとかなんかほざいていたな)
初日からずっと言っていたフリーの魂の訴えが、凄まじい時差を超えてニケに届いた瞬間だった。
(ええや。入ってまえ)
数歩戻って、脱衣所の戸を開ける。
(まったく。あやつも男なら男と、先に言っておけよ)
ぷんぷんと怒り、すのこの上で帯を解く。
フリーが聞いたらなんかもう泣き出しそうなことを愚痴りながら、脱いだ着物を籠に入れていく。
すっぽんぽんになったニケは、手ぬぐいを頭に乗せると浴室の戸を勢いよく開けた。
「ほわっ!」
腰に手ぬぐいを巻いただけのフリーが、座った体勢のまま飛び上がる。髪を流した直後だったのか、桶を持ったまま目をぱちくりさせる。
肉付きの悪い胸元にはあばらが浮き上がり、濡れた白髪が絡みついている。相変わらず鱗も尻尾もない。面白味のない身体だなと思いながら、ぺちぺちと今日の地面より濡れている板張りの上を歩く。
壁に設置された行灯の明かりが、優しく室内を照らす。
「ニケ? どどど、どうしたんだ?」
「お前さんを待っていたら日が暮れる。……もう暮れたけど。僕も入る」
同じくヒノキで出来た椅子の上に座り、頭からお湯を被る。
「うわっ」
動物のように黒い髪を振って水気を飛ばすと、フリーが腕で顔を庇う。
「んもう……。あ、じゃあ俺は出るから、ゆっくり入っててよ」
そっと立ち上がりかけるフリーを睨みつける。
「そ、そんな目をしなくても、ちゃんと髪は乾かすよ、ぶっ」
ニケの投げた手ぬぐいがフリーの顔に当たった。
「ふえ?」
「んもぅ。背中くらい流していかんか。気が利かんやつやなぁ」
ちょいちょいと自分の背を肩越しに指差すと、フリーの目がきらんと輝いた。
「えっ。いいの?」
「は?」
なんだその「やりたかった」と言わんばかりの声音は。
訝し気に振り返ると、フリーは口が滑ったと言わんばかりに慌て、それを誤魔化すように手ぬぐいで石鹸を猛烈に泡立てる。
「あはは……。な、なんでもないよ? せ、背中を洗わせてもらいます……」
「?」
よく分からんが、洗うと言っているからいいだろう。
首を傾げて前に向き直る。尻尾が上下に揺れているのはお風呂が好きなだけであって、洗ってもらうのを楽しみにしているとかそんなんじゃ……
ごしごし。
泡立てまくった手ぬぐいが背中に押し付けられる。
弱くもなく強すぎない力加減が実に気持ちいい。
「あ~~~」
おっさん臭い声をもらすニケに苦笑する。
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