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第23話 夏障子
「ごめん。溺れたらいけないと思って」
「心配性だなぁ。僕は泳げるけどな」
そんな気はしました。
出るつもりだったのだが、また湯に入ったので髪を束ねておく。
その紐をじっと見つめているニケに気づき、気になっていたもう一つを訊いてみることにした。
「なあ、ニケ。そういえばニケのお姉さんは――」
そう言った途端、ニケは赤い目を見開いた。小さい手で白い頭部を掴み、そのまま水中に押し込む。
「がぼぼぼぼっ?」
急に空気とお別れさせられ、フリーは湯の中でひどく困惑する。それと同時に聞いてはいけないことだったと、なんとなく察した。
暴れも抵抗もしないフリーに、ハッとなって手を離す。
「ぶふー」
頬を押されたフグのように水を吐き出しながら、フリーは上体を起こした。
そんなフグと目が合うと、ニケはさっと目を逸らす。
「お前さんには、関係ない」
「……」
困った顔で白い前髪をかき上げ、それでも一切言い返してこない彼に、少しだけ申し訳なくなった。
借りている部屋に戻ったフリーは髪に手ぬぐいを乗せただけで、ろくに水気を取っていなかった。あれだけ言われたのに髪を乾かすのも適当に、何をしているかと言えば、箸の練習である。
――昨日は練習する間もなく眠ってしまったからな。
室内干しで(ニケが)何とか乾かした布団の上で胡坐をかき、練習用の二本の棒と睨み合う。
皿に入った豆を箸で掴み、別の皿に移すという練習方法があるとニケに聞いた。しかし、まだ「箸を上下に動かす」段階で躓いているフリーは、その練習をする以前の問題だった。
ぐううぅ。
フリーの腹が虚しい音を響かす。
「ぬぅ」
二人してのんびり風呂に入っていたため――フリーはのぼせる寸前だったが――夕食はお預けとなってしまった。
ニケは小声で「すまん」と詫びていたが、フリーは首を傾げるばかりだ。
こんな暗い中ものを食べるなんて無理だし、ご飯の用意などもっと無理だろう。
だいたいフリーからすれば出来立ての飯を食べさせてくれて、色々教えてくれるニケは天使で、風呂で身を清め布団で眠ることが出来るここは天国に等しい。
天使が謝ることなど何かあっただろうか、と自身の顎を撫でて真面目に思案する。
残った片手は不器用に箸に変なダンスをさせるだけで、使いこなすとは程遠い有り様だった。
部屋の隅に長らく使われていないと思われる行灯はあったが、ニケのような力もないフリーには役立てることはできない(火のつけ方を知らない)。暗闇に包まれていると眠たくなってくる。フリーの瞼はすでに半分ほど落ちていた。
「ああもう駄目だ。明日にしよう」
ううんと背伸びをする。
練習用箸を無くさないよう決まった場所に戻そうとして、手の甲がなにかにぶつかる。
「いてえ! 駄目だ……暗くて何も見えん」
配置も覚えていない、視界もきかない手探り状態。なににぶつかったのかも定かではない。
もう寝るしかない。
箸は布団の下に仕舞い、布団をかぶる。やわらかな布団に身を委ねた二秒後、勢いよく上体を起こした。
「髪ぃ! 乾かしてない」
これで寝たら今度こそフルスイング平手されるであろう。命の危機である。
ニケがいたら「一人で何騒いでいるんだ」と注意しそうなものだが、隣からは物音ひとつしない。
「……寝たのかな?」
ちょっと気になったので手ぬぐいで髪を拭いつつ、そっと簀戸(すど)を開けて廊下に顔を出す。
「あれ? そういや障子じゃなくなってる……。なんだこれ」
簡単に言うと簀戸(すど)とは、すだれをはめ込んだ建具のことで、衣替えと同様に六月になると障子や襖の代わりに取り替えて、暮らしを夏用に整える。「夏障子」とも呼ばれ、外から室内は見えず、採光と通風を確保し、百年以上の耐久力を持つ情緒あふれる廊下と部屋の境。
それをしげしげと眺める。
(ほー。涼し気でいいな。しかし、いつ取り替えたんだ? ニケがやったんだよな?)
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