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第26話 初めてのお客様 ②

「ニケ殿の心遣いを感じられる部屋だな。いつ来ても心地よい」 「過分なお言葉、痛み入ります。……レナさん。怪我をしてらっしゃいますよね。お風呂の用意をいたしましょうか? うちの温泉は傷に効く薬湯の顔もありますし」  見事言い当てられ、レナの腕と脇腹がずきりと痛んだ気がした。  レナはずっと下にある犬耳を見る。 「まったく。鼻の利く貴公らに、隠し事は出来んな……。では頼もうか」 「承知いたしました。準備ができ次第声をかけます故、それまでゆるりとなさってください」  腰を折り、さっと部屋を後にするふさふさの尻尾を見送ると、貴重品の入った鞄だけを机に置く。  足音が完全に遠ざかったのを確認すると、レナはどっかと座椅子に腰掛けた。 「あー……。しんど」  薔薇の形をしたボタンをひとつ外し、首元を楽にする。 中華ドレスがしわになるのも構わずに、足を投げ出し背もたれに身を沈める。先ほどまでの余裕で高雅な態度は消え失せ、疲れ切った女性がそこにはいた。  完全に目が死んでいる。  虚空を見上げ、だらしなく開いた口からは涎が垂れそうだった。 「あー……。しんど」  同じことを繰り返していることにも気づかない。  危険地帯である凍光山、その唯一である安全地帯にようやく入り込めたのだ、気が緩んでしまうのも無理なかった。  凶暴な魔獣や獣、魔蟲や謎のキノコがうじゃうじゃいる場所で、それでも比較的安全な場所を選んで小休止を何度か挟んだが、体力は戻っても到底気は休まらない。  最強の生物。火竜の残滓を恐れて、魔獣たちは夏エリアには入ってこない。  正直、この場に宿があるのは非常に助かる。 「酷いな……」  落ち着いて自分を見下ろす。  肌は切り傷擦り傷だらけ、服は虎柄が確認できないほど泥で汚れている。ところどころに青が混じった自慢の紫髪も、葉や細かな枝を絡め、くっしゃくしゃだった。  こんな泥ん子が宿内を歩いて、申し訳なく思う。座椅子もご覧の通りだ。  それでも嫌な顔一つしないニケに、幼子ながらプロ意識を感じる。これはチップを弾まねばならない。  山のように突き出した胸の先端にそっと指を乗せ、レナは深く長いため息を吐き出す。 「ふー。しかし……相変わらず可愛いなぁ。ニケちん」  ふにゃっとレナの表情が緩む。  リンゴのようなほっぺにつんと尖った唇。稀に覗く犬歯は真珠のようで、もう頭からかじりつきたい。いや、種族的に誤解されそうだが、今のは「食べちゃいたいくらい可愛い」という言葉と同義で……。深い理由も血なまぐさい意味もない。  はじめは避難所として利用していたのだがだんだんとニケ、とオマケにその姉目当てでここを訪れている気がする。もちろん今日は龍虎退治でやってきたわけだが。ニケに会えると、心の中で少々浮かれていたのも事実だ。  瞼の裏から消え去った姉妹の泣き顔に、レナは胸を撫でおろす。 (にしても龍虎(りゅうこ)のやつ。滅茶苦茶逃げるから迷いかけたじゃないか。早くニケちんに会いたいってのに)  凍光山で迷うということは、死を意味する。  鞄を引き寄せる。龍虎の牙だけでもかなり大きく重いのに、そのあともちょいちょい雑魚魔獣を狩ったものだから、鞄がパンパンだ。  ちょっと調子に乗ってしまった。でも生態系を壊す勢いで殺しまくったわけではないし、まあいいかと朱色の牙を撫でる。  そんな時、   「失礼します」  廊下から聞こえた声に、レナは瞬時に姿勢を正した。一秒前まで福笑いの如く崩れていたとは思えないほど、凛々しい顔つきを取り戻す。  芸術的なまでの変わりようだったが、残念なことに目撃者はいなかった。 「なんだ?」  薄いのれんに白い影が透けて見える。幽鬼族の青年か。  できればニケちんが来てほしかったが、従業員に仕事を与えているんだろう。戦利品を仕舞う。 「お風呂の用意が出来ました。どうぞ。いらしてください」  かなりの棒読みだったが、噛まないように努めているのが伝わってくる。  これがニケだったら悶えまくっているのだろうが……レナは大人の男に興味がなかった。いや、まったく惹かれないというわけではなく、自分より弱い雄に魅力を感じないのだ。あの従業員が自分に勝てるとは到底思えない。デコピンで吹っ飛んでいきそうだ。  鞄を持って部屋を出るとギョッとした。  幽鬼族の従業員が、廊下で見事な土下座をしていたからだ。吹き出すかと思った。 (……)  ニケの教育方針が若干気にはなったが、あえて突っ込まないでおく。 「ああ~……。では、案内してもらおう」 「はい」  案内してもらわなくてももう何度もきている宿なのだ。風呂の場所くらい知っているが、そう言わないとこの青年はずっと土下座をしていそうで怖かった。  すっと頭を上げた青年に、角や牙はなかった。 「……?」  幽鬼族特有の変な妖気も感じない。肌の血色も良い。不審には思ったが、あの健気なニケが幽鬼族と言ったのだから、そうなのだろう。  ヒノキ風呂の前まで来ると、ニケが立っていた。従業員とレナを見ると、ホッとした様子だった。  レナの側に行き、囁く。 「レナさん。うちのアホ……じゃなくて従業員はどうでした? ちゃんと仕事してましたか?」  床に額を擦りつけていて不気味だったが、こんなの些細な問題だろう。子どもが自分のおもちゃを自慢するような顔が愛らしくて、しゃがんだレナは聖母のように微笑む。 「ああ。問題はない」 「そうです……か。すいません。レナさんで試すようなことをしてしまって」  それはつまり、レナなら怒ったりしないだろうという信頼の表れだろうか。なんだかニケに頼られている気がして、レナはフフンと笑う。 「そんなこと気にするな。従業員が使い物になるか心配だったのだろう? 遠慮せずに、この従業員に練習させればいい」  そう言うと、ぱあぁとニケの顔が花咲いた。 「はいっ」 「ぐっ」  なんて愛らしい笑顔。  心臓が止まりそうな不意打ちに、レナは胸を押さえてよろめく。鍛えていなかったら無様に倒れていたかもしれない。  思わず腕を伸ばして抱きしめかけたが、ここで空気の読めない声が割って入った。 「お風呂、入らないんですか?」  白い従業員だ。  邪魔しやがって、思わず噛み千切ってやろうかと思ったが、ニケの持ち物を壊すのは気が引けた。  ガンつけるだけで勘弁してやろう。それにしてもこの従業員。初対面からこっち、ずっと張り付けたような笑顔なのがなんか怖いな。  脱衣所の扉が閉まると、営業スマイルを消したニケは手桶と雑巾をフリーに投げ渡す。  手話で「彼女が歩いた道をきれいにしておけ」と伝えると去って行った。 「……?」  手話の内容というか、手話自体知らなかったが、掃除道具を渡すということはそういうことなのだろう。フリーはさっそく廊下を磨き始めた。  その後もてんやわんやと時間は過ぎ、目を回しながら宿をあっちこっち走り回った。  客が一人来るだけで、こんなに忙しくなるのか。  日が山の向こうへと沈んでいく。  ニケの指示通りに動いていると、一日が終わっていた。  初めてのお客さんを迎えるということで、フリーは緊張していたらしい。あれこれ失敗しまくって蹴られたケツが痛い。忙しい、というよりかは、忙しく「させた」気がする。  自分なりに精一杯やった、つもりではある。

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